「言葉」はどうしてこんなにも強い力を持ってしまうのだろう。(前回の記事)
漢文学者の白川静は『漢字 生い立ちとその背景 』(岩波新書)で次のように言う。
「今から約五十年前、北京郊外の周口店遺址から、数次にわたって、北京原人とよばれる古代人骨が発見された。地層的に五十万年以前の人骨とされているものであるが、その脳骨の調査によって、言語中枢の発達や聴覚領の著しい拡大の事実が認められ、かれらがすでに相当数のことばを用いていたことは、確実であるとされている」
「原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである」
「文字はもと神と交渉し、神をあらわすためのものであった。そしてそれは同時に、神の代位者である王の権威の確立を、助けるものであった」
「古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった」
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私も、言葉が神や天を知る手がかりとして創られたものだったから、力を持ってきたのだと考えます。中国の古代語ややまと言葉などは、ひとが創り出したというよりは、どこからともなく降りてきたものとも感じています。
わたしたちは、神や天とつながるために言葉を次々に編み出していった。
わたしたちが神や天を知るとは、「すべてがひとつながり」となっている世界への回帰のためでもあります。
分離感によって苦しんでいる自分自身を、自然をはじめとしたより大きな存在に向けて、開いていきたい。
そのために「神」という概念をつくり、そこに至る道しるべとしての言葉を創ってきた。
それゆえ、言葉には当然のように並外れた力がなくてはならなかった。
わたしたち自身が言葉に力や霊力あたえ、言霊の力を形創ってきた。
ただ、どこまでいっても「言葉」と「神」や「天」とは一致しない。しないが、その存在は信じることが出来る。
それで十分だったのかもしれません。
しかし次第に言葉であらゆるものを定義しはじめると、多種多様な言葉を用いることですべてを解決しようとします。
神に近づきたい一心からですが、なんとかして自分の理解出来る範疇に落とし込もうとしていく。
しかし、それは本来「ひとつながり」であるはずの神や天を細分化していくことにつながり、信仰も細分化し内的にも外的にも混乱が始まります。
そして前回の記事に書いたように、ブロックを強化していくことに言葉が力を貸してしまうことになる。
わたしたちが内的な混乱を回避するために、言葉や文字を、当初そうであったように、”「ひとつながり」に回帰するための神性な力を持つもの”として扱っていかなくてはならないのでしょう。
古代人の言葉の使いかたを想像してみたり、言葉をいったん自分の内側に通して、そして天をも通してつかっていく。
言霊とは、意味/意図の実現する力とともに、自身を「ひとつながり」に回帰していく力のことを言うのだと思います。