記事言葉と裁かない知性で以下のように書いた。
【人がどのような言葉を使うかは、その人がどのような存在と接しているのかと同義になっていく。
どのような現実を創り出し、観ていこうとしているのかと同義になる。
この一致性は、いにしえの人々には明らかなことだった。
私たちは言葉を使っていると思い込んでいるが、むしろ言葉に使われているのかもしれない。
使える言葉と意味や発音をあてがわれているのかもしれない。
使いたい言葉と意味を丁寧に選び直し心を込めて発話していくことは、創りたい現実やうつくしい現実を創り出していくことにつながっていく。】
ブロックがあるひとならば、多くの場合マイナス作用やダメージを自分や他者に与える言葉を、習慣として使っているはずだ。自分を裁くことを頻繁にするひとも多い。
ブロックの多くが言葉で構築されているということは、そのブロックを作りだしたマイナス作用の言葉が、あるいは使うのをおそれている言葉が自分のなかにある、ということ。
ブロックは自分のモノなのだから。
問題そのものではなく、問題を言葉による解釈で変形させてしまうことがブロックとなり人生を混乱させるのだ。
問題そのものと言葉で逃げたり合理化することなく向かい合ってのち、あらためて言葉を慎重に選び自分を観ていく。
またときには自分が生きる上で囲まれていたい言葉を、主体的に選び直してみる。
そしてその言葉を心を込めて発話してみる。
きっとこれが、古代における「うた」のはじまりだったはずだ。
いやいまでもそうなのかもしれない。
「うた」はその音の力と言霊の力でひとの人生を変える。
同様に自らの言語世界を変えることは、そのひとの人生を変える。
他人に使う言葉と自分自身に対して使う言葉の癖を、見いだしてみよう。
その癖として使う言葉を、本当に使いたいあるいは使うべき言葉に組み替えていってみることだ。
これが実生活で出来るとき、ブロックは解放へ向かっている。不思議と人生が調子よくなるはずだ。
「ネガティブな言葉を使うことは良くない」と言っているのではない。
必要ないエネルギーを遠ざけるためにはNOと毅然と言ったり怒ることは大切だ。これが出来ないと他者や社会にコントロールされる人生しか歩めない。
またポジティブに「すべては愛だ」といってみても、何もはじまりはしない。
センチメンタルな言葉は、逃避のエネルギーを纏うためそれ自体が混乱をはらんでいる。
どのような言葉や文章を他者や宇宙に投げかけたいのか、そこを見つめてほしい。
どのように天との関係を結びたいのか。
わたしは自分自身になにを求めるのか。
どのような音のつらなりを大切にしたいのか。
これらについて自分自身が納得できる「言葉や音のつらなり」を創ってみる。そしてそれを味わってみる。味わいながらすこしずつ修正する。
その言葉のつらなりは必ず癒しになり、また支えにもなってくれる。
大木実の詩(= 前へ =)を再掲する。
少年の日読んだ「家なき子」の物語の結びは、こういう言葉で終っている。
- 前へ。
僕はこの言葉が好きだ。
物語は終っても、僕らの人生は終らない。
僕らの人生の不幸は終りがない。
希望を失わず、つねに前へ進んでいく、物語のなかの少年ルミよ。
僕はあの健気なルミが好きだ。
辛いこと、厭なこと、哀しいことに、出会うたび、
僕は弱い自分を励ます。
- 前へ。
詩集『冬の支度』より