クライアントを前にしたとき、その神性のみにフォーカスしていくことは、セッションという場で望ましいことなのか分からないが、美しい瞬間にはなるだろう。
私がオーラをみえるようになり今もその活動をしているのは、そのためではないかという気が最近している。
まずチャクラを通して心性を観て、いくらか話したのちに、ようやく神性に至る。
神性の認識に至らないうちに終わるセッションもあり、その場合はセッション後ひとり考えることがある。またそのひとは訪れるかもしれないから。
神性とは過去生や霊的能力のことではない。これらはむしろ心性の方。ブロックもむろん心性。
そのひとを通して顕れているそのひとの天なる部分、それは決して消えない力強さとか愛、感謝とか静謐さ、ユーモア/ユニークさや覚悟、かなしなど、こちらの落涙をさそうような側面。
そのひとの魂が本人も知らずにずっと奏でている通奏低音の響きのようなもの。
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初めて山形県酒田市を仕事で訪れたときのこと。
失礼ながらあまり行きたい名所旧跡が多い町でなかったこともあり、土門拳美術館に足を運んだ。
土門拳という写真家の名は知っていたが、その写真をじっくりとみたことはなかった。
この美術館を訪れると、遠景からでも最初に谷口吉生の現代建築の美しさに目を奪われるだろう。
そして、展示してある写真からはというと、本物の力と気迫に圧倒されつつ、様々な内的気づきに導かれるとでも言おうか。
それまで写真というものを、好きではあったがまだまだなめていたのだと反省した。劇的シーンがとれるかとれないかというある種の運のたまものや、演出のたまものなのではないかと。
彼の写真には常人の目には見えない何かが写し込まれている。
多くの対象に正面から向き合っている。
なのに私の目とは違うものを観ている。
あるいは彼は、じっくりとその対象を見続ければ、いつか必ず神性が観れることを信じている。
「大事なモノは見れば見るほど魂に吸い付き、不必要なものは注意力から離れる」土門拳
たしかに構図の切り取りが面白い。不必要なものをバッサリと切っている。
魂の写真家なのだと思う。
この美術館を訪れて以降、土門が撮影したものの実際を私はいったいどう感じるのかと、彼が対象としたものの実物を求めて旅してきた。
ヒロシマ
九谷焼 伊万里焼
室生寺
京都奈良の寺社とその柱や錠や蝶番
こどもたち
数々の仏像
文芸作家たち
最近、京都高山寺を訪れたのも、土門のこの写真から常々神性を感じていて、いつか実物と出会いたくてのことだった。
ここで修行した明恵上人と土門が、日本美「もののあはれ」や「かなし」を背景に邂逅しているかのような写真だ。
土門がこどもたちを撮るとき、カメラを置き2週間ほどひたすらに一緒に遊んでから、ようやくカメラを手にしたと聴く。
こどもだけでなく、すべての被写体を前にして徹底した観ることによる対象の純化が最初にあったと聴く。
リアリズム性は譲れなかっただけに、こどもや被写体の心性神性を一瞬のなかに写し出すには、彼のなかでの対象の純化が不可欠だったのだ。
彼の写真からは、弱者へのいたわりや慈愛も感じるのは、対象物の神性だけでなく彼の神性も写されているからだろう。
大げさでなく、美術館では一枚一枚、呼吸が止まりそうになったことを覚えている。
神性さが宿った芸術作品には、こちらに「このようなものを観ながら生きよ」「このようなものを目指して生きよ」と迫ってくる力がある。
当たり前だが、撮影は電気信号だけでは決してない。電気や光に見えない何かが載っていて、観る側もその何かを感じ取る。この世はそのようなもので溢れている。
存在の神性さにフォーカスして生きること。
この写真を観ていると、涙が出そうになるのは私だけではないと思う。
酒田にはこの美術館を訪れるだけでも価値があると、ひとに薦めている。