無価値観を抱えていると、本来なら最も大事にしたいはずの自分の感情や気持ちから次第に切り離されていく。思考すら他者の代弁的なものになっていく。
生きるという行為や仕事に携わることは多くの場合「お前は無能だ」という社会からの圧力との格闘でもある。それらは一層無価値感を積み重ねるように感じられ、本心を素直に認識することすら困難になる。
いつしか「自分は何がしたいのか」「何を求めているのか」という問いへの答えが曖昧になり、手っ取り早い答えや歪んだ方向に意識が逸れがちになる。
こうしてますます自分を観ること/世界を観ることがおろそかになり、代わりに自己否定や他者への批判、欲望充足に時間を費やし、つかの間の相対的優位感に浸ることが習慣化してしまう。
自分が本当は何を望んでいるのか、そして過去になにを経験し、どう傷ついたのか。
それを掘り下げる行為は、思い出したくもない痛みや恥ずかしさを伴う場合があるだろう。とりわけ長年にわたり無価値観に苦しんできた人ほど、その痛みに触れるのを恐れて、防衛本能を働かせる。
内側に向けてきた厳しさを外側に向けることで、ほんのひとときだけ安堵を得るような防衛機制もあるだろう。しかし、そのわずかな安堵の裏で本当に大切なものを見失っていく。
一時的な優位感や欲望充足によるごまかしは、心の深い部分にある渇望や不安を癒すどころか孤立やさらなる自己喪失を招くのだ。
目を背けたり、批判を他者に向けることの代償として失われるものはあまりにも多い。やがて自分の感情がどこにあるのかすら見えなくなり、自分との関係だけでなく周囲との関係も脆く崩れやすくなっていく。
そうした状況から抜け出すには、瞑想やジャーナリングのような地道な方法を通じて、飾りのない自分の「本音」をつかまえつづけることだ。
他者への奉仕も、閉ざしたハートを開く契機を与えてくれるだろう。
自分についてどう思っているのか、他者についてどんな気持ちを抱いているのか、私はどのような生きづらさを抱えてきたのか。
どこまでも内に向かっていきながら、こうしたことを認めることをつづけていくほかに、本当の意味で自分を取り戻していく道はない。
