『怪物』がLGBTの映画であり『花束みたいな恋をした』を単なる恋愛映画と思っているひとは、いないと思っていた。
両者とも坂元裕二脚本であり、彼の脚本は、
【精神的自立 → 癒し → 再生 → 他者救済】
が主題となっている。
『怪物』が本家アカデミー賞にノミネートもされず、日本アカデミー脚本賞すらとらなかった。
おどろき、勢いに任せ前回のブログを書いた。
『花束みたいな恋をした』は、単なる恋愛映画ではない。
「他者のために生きる」
その可能性を模索した映画である。
*
『怪物』が、
「常識や世間などによって抑圧され、ありのままの自分が間違っていると思い、自身の真実を吐露できない主人公が、他者からの善意と良心で再生をとげる物語」
とするならば、
『花束みたいな恋をした』は、
「最初は自由でいられた主人公たちが、社会の抑圧で自分を見失い、恋も失うが、「奇跡」の力で再生し”他者のために生きはじめる”その可能性を描いた物語」
といえる。
【精神的自立 → 癒し → 再生 → 他者救済】
このプロセス全体は、宇宙に充ちわたしたちが成就するのを待っている「愛」そのものといえる。
*
以降ネタバレ
冒頭のシーンで、恋人同士が、イヤホンのLとRを別々に聴いている。
しかしイヤホンのLとRは、別々の音で構成されているため、それぞれを別々に聴くのでは、同じ音楽を聴いていることにはならない。
そして、主人公のふたり麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、この例から
「恋愛はひとりに一個ずつ」
と言って、LとR別々で聴いているカップルに「注意」をしにいこうとする。
なにを?
どうして?
冒頭、この疑問と出くわす。
この映画は、この疑問を解き明かしていく映画だ。
仮に「ふたりで一つの恋愛」を想像してみよう。
どのようなイメージだろうか。
「恋愛」そのものの成就が大切になるだろう。
ふたりで一つなので、双方ともに恋愛成就に努力し献身的になる必要がある。
それぞれ自分を殺し奮闘し、相手にもなにかしら要求しはじめるかもしれない。
恋愛感情が薄れると、喧嘩が多くなり「ハードルを下げて」いつしか、恋愛感情そのものを求めなくなるかもしれない。
これは終盤ファミレスでの、ふたりの会話でもあった。
「ふたりで一つの恋愛」を大切にして、ふたりが、たとえどんなにハードルを下げてでもこの恋愛をつづけていこうと思ったその矢先、二人の若い初々しいカップルがやってくる。
そして、彼らの会話を聴きながら、過去の自分たちの輝きを思い出すと同時に、本来の「恋愛」「愛」そのものの美しさをも、思い出すことができた。
世間のひとたち皆が行っている「ハードルを下げる」ことには、なんの意味もないことに気づけた。
そして、ふたりは別れる。
「恋愛はひとりに一個ずつ」の場合はどうか?
なかなかイメージは沸かない。
私たちのなかに、ハードルを下げてでも恋愛はふたりで成就すべきもの、という固定観念があるからだ。
だからこそ、中盤ふたりの恋愛が盛り上がっている最中、「恋愛生存率」という概念とそのブログの登場が意味を持つ。
ブログの著者は、自ら命を断つ。
このシーンで、「ふたりで一つの恋愛」成就に奮闘努力することは、実は絶望的なのだと示される。
「ふたりで一つの恋愛」生存率は「ゼロ」と。
「恋愛はひとりに一個ずつ」
恋愛そのものの「輝き」と「美しさ」を、自らのなかでも、また相手のなかにおいても育み、それをすくいだしていくこと。
*
最初に、絹が社会に出るための就職活動をする。
面接で傷つく絹を「救い出す」ため、麦は走りに走る。
この後、ふたりは一緒に暮らしはじめ、花束とトイレットペーパーを買いがてら、美味しいパン屋をみつける。
ここで、それぞれが以下を象徴していることに気づかなくてはならない。
花束:輝きある恋愛、愛
トイレットペーパー:生活(能力)
*最初絹は、麦の元に忘れる。終盤では麦がきちんと買えているのかを心配している。
美味しいパン:趣味嗜好や価値観
花束を絹が胸に大切にいだき、麦がトイレットペーパーを持って川辺を歩きながら、「ひとつの焼きそばパン」をふたりで食べている。
このシーンが、最後に登場するシーンとなる。
恋愛の象徴である「花束」は、ふたりで持つのではなく、絹がひとり抱えている。つまり二人でする「恋愛」というよりも「愛」と呼べるものになっている。
この時の麦は社会に出ていないこともあって、絹の幸せのために献身的に過ごす。そのことを通して、絹との恋愛を素晴らしいものにしたいと、願っている。
しかし、麦が就職活動を始めてからは、ふたり一緒の時間も少なくなり、不協和音が多くなる。
麦は、社会や組織の圧力に負けないよう「責任を果たす」という言葉で、自らを鼓舞し保とうとするが、自身も周りも徐々に不幸になっていく。
「責任」という言葉は、実は社会で成功しているひとや上に立つ者が、他者をコントロールしたいときに使う言葉だ。決して、自分で自分に使ってはいけない。
広告代理店(電通)で働く絹の親も大好きな言葉だ。
「人生って、責任よ」
....まったく意味が分からない....
「人生は、救い合う歓び」だ。
こうして、四年つづいたふたりの恋愛は破綻し、一年後の冒頭シーンにつながる。
さて、ふたりは、
「恋愛はひとりに一個ずつ」
という考えにいかにして至ることが出来たのか。
ふたりが最も輝いていた時、責任など考えず、相手の幸せを願い、自らの幸せをも「もったいない、もったいない」と言いながら、他者に汚されないよう世間から大切に保護し、噛みしめていた。
にもかかわらず、月日が経つにつれて、麦が社会的抑圧で苦しんでいても、絹は麦を救い出すことはせずに趣味嗜好の共有を促すことでふたりの恋愛自体になんとか価値を持たせようとする。お互いに....
別れた後の、ふたりのこうしたことへの反省によるものもあったのだろう....
ラストのファミレスでの会話以降、ふたりは一年かけてこの考えに至っていく。
とはいえ、ふたりともに、いかにも社会的責任下で選択したと思われる、さほど幸せそうに見えない恋愛をしている。
そんな冒頭シーンにつながっていく。
LとR別々に聴くカップルに、ふたりは
「なにを」
「どうして」
注意しに行こうとしたのか。
ひとつのイヤホンを二人で使うような「ふたりでひとつの恋愛」を目的としないで。「恋愛(花束)はひとりに一個ずつ」だよ、だからそれぞれのなかで「愛」をはぐくんで、と。
二人で一緒に行うなにかを要求したりせず、ただ相手の愛(花束)を充たし、苦しんでいる時はお互いを救い出すことが、恋愛や人間関係ではもっとも輝ける美しい瞬間だったのだと、知ったからだ。
*
この物語では、ふたつの「奇跡」が起きる。
奇跡は、自己や他者を「再生」へと導く契機として生じるものだ。
麦自身も「奇跡」と言っているように、神の目としてのGoogleストリートビューへの登場だ。
その神の目には、自信をもって闊歩している麦の姿があった。
この一つ目の「奇跡」から3か月後、麦は精神的自立を果たし、思わせぶりな「卯内さん」への想いを断ち切り「自立」を果たす。
これが、絹とのかけがえのない出会いにつながっていく。
二つ目の「奇跡」は、カフェでの冒頭の鉢合わせシーン後、麦も絹も自宅でひとりになって、それぞれについて想いを馳せている時に生じた。
ふたりは幸せの絶頂時パン屋に行った帰りの、しかし既にパンは食べ終わった姿でGoogleストリートビューに登場する。
なぜこれを麦は発見できたのか。
「一緒に行っていたパン屋のパン、また食べたいな」と思ったからだ。価値観の異なるいまの恋人では、たのしい会話ができないから。
しかしこの時の麦は、不協和音下での絹とのLineで、パン屋が既に閉店していることを知っているはずだった。なのに、忘れている。
当時の麦は抑圧のなかで自分を見失い、別人格的存在となっている、だから完全に忘却している。そう脚本家坂元裕二はしている。
いま、麦は本来の自分自身を取り戻しつつあった。
そして「二つ目」の奇跡が起きる。
同時に「恋愛はひとりに一個ずつ」という思いに至っている麦と絹、あたらしい「ふたり」がいる。
この「奇跡」から3か月後、ふたりはギフトとして、なにを受けとるのか。
ストリートビューに登場するあたらしいふたりは、「神の目」につぎのように映っている....
パンは食べ終わり(もはや必要とせず)
「花束」と
「トイレットペーパー」を持って
手をしっかりと繋ぎ合っている....