突き抜けた自棄が、この世界や宇宙の再生のためには不可欠であることを、こころのどこかで知っているひとがいる。
「ありのまま」でいるには、完全に自己の鎧を脱ぎ捨て、傷つきやすい裸の状態でなくてはならない。
「ありのまま」とは、孤独で苦しいものなのだ。
観念的な苦しさではない。
かなしいまでに、この世界も宇宙も、「かなし」さに充ちているから。
このありのままの状態でいつづけることの出来る力強い精神のひとが、いつの日か不死鳥のごとく飛び立ち、わたしたちを先導してくれる。
釈迦がそうであったように。
「宇宙」やこの「世界」にとっての「内的な死」のためには、誰かによる自棄を必要としている。
不死鳥になるまで、「苦しみ」と「かなしみ」の火は、その人のなかで烈しく燃え続ける。
愛は「かなし」である。
だから「慈悲」だと、釈迦はいう。
この痛切な愛を、なにかを使ってごまかしたり解消したりすることなく、ありのままでいつづけてくれるひとたちのおかげで、わたしたちも、いつの日か、飛び立つことが出来る。
この世界や宇宙を救い出す力は、かなしみにある。
強い精神を持つものが、なんどでも知覚しつづけている、動き生きているかなしみにある。
それは美のある、かなしみでもある。