私の言葉ではない。
私の「かなしさ」は疾走しない。
しかし、沈殿もしない。
常に静かに流れていて、私のなかで美しさやいのちの源泉になっているように感じている。
この「かなしさ」に飲み込まれることもなければ、この「かなしさ」がなくなることもない。
静かに静かに遍在し、そして拡がっている。
出会うひとたちの、瞳や細胞のなかにも。
3,4歳の頃は外で遊んでいて、ふと、沈む太陽を観ていると、この「かなしさ」に飲み込まれそうにもなった。
成人してからはない。
抱きとめ方を身につけたのかもしれない。
芸術作品を見るときの基準は、これが、あるかないかだ。
今に至るまで変わっていない。
表題の言葉は、小林秀雄の「モオツァルト」のなかの一節。
小林秀雄は多くの作品で、この「かなしさ」を題材としている。
否、ほぼすべてでこのテーマを扱っている。
この「かなしさ」に胸まで浸かりながら、明晰な知性で天才たちを批評していき、練られた言葉とその音や文体のリズムで、天才たちが目指していた高みに、読者がまだ観ることのできぬ高みに、導いていこうとする。
それが、彼の探求していた「美」なのだと理解している。
表題の一節は、モオツァルトのK.516についての文章であり、以下のように続く。
「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。
涙の裡に玩弄するには美しすぎる。
空の青さや海の匂いの様に、
「万葉 」の歌人が、その使用法をよく知っていた 「かなし 」という言葉の様にかなしい 」
今日、彼の「モオツァルト」を読むのは、数十年振りだった。
表題は良く知られている一節で、私も記憶していたが、その後の文章が上記のように続いていることには、個人的なことなのだが、驚いた。
「かなしさ」という言葉を通して、小林秀雄と同じ高みにたち同じ景色を観ている人は、どこかに多くいるに違いない。
「かなし」という大和言葉を調べて見ると、「なし」を強調する「か」という接頭語がついた説を、見つけることが出来る。
同時に「しみじみといとおしい」「せつなさ」の意があることも。
私たちは、心なくどこからかもたらされる、この「なし」から離れて生きることは出来ない。
すべては無常だから。いつしか移ろいゆき「なくなっていく」ものだから。
そうでなくては、「永遠」はない。
「永遠」は、私たちのうちに生まれる。
ある、いとおしさ、とともに。
万物が移り変わることから生起していく、この「なし」を、深く感じ入ることが「永遠」につながっていく。
こうしたことに、しみじみとした愛しさ切なさも含まれているのが、「かなし」の語源にちがいない。
小林秀雄は、ボオドレエルやアルチュール・ランボオに深く影響を受け、若い頃、詩人になろうとしていた。
「モオツァルト」は40代前半に書かれている。
この後も、詩的な文章が続く。
「こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。
まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。
彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。
彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺っていないだけだ。
彼は悲しんではいない。
ただ孤独なだけだ。
孤独は、至極当り前な、ありのままの命であり(略)」
「(ありのままの)命の力には、
外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。
この思想は宗教的である 。だが、空想的ではない」
音楽を聴くとき、この「かなし」が音として表現されるかどうかは、多少なりとも重視している。
Marantz#7
Mark Levinson LNP-2L
Quad ESL Series
Naim
これらの創業者たちが音決めをして創られたオーディオ機器は、その音に「いのち」が吹き込まれている。
Mark Levinson以外のメーカーの創業者はもう他界している。
1950年代から70年代にかけて、世界の天才たちは音の世界に集まっていた。
ここに挙げた機器は、雑音すらも心地良い音楽にしてしまう。
「かなし」を表現するのに最もすぐれているのは当時のMark Levinsonだろう。
私は持っていない。
このアンプで音楽を聴くと、そのたびに泣いてしまいそうになり仕事にならないことが分かるから。
涙は追いつけない、のだが。
akuaに置いているスピーカー、Sonus Faberの今はなき創業者フランコセルブリンも、そうした天才のひとりだった。
彼はイタリアはクレモナにて手作りでスピーカーを創っていた。
ストラティバリウスやガリネリウス等の弦楽器の名器が作成されてきた地方都市で、その工房と職人文化が彼には必要だった。
ガリネリウスの音の方が、ストラティバリウスより、深く「かなし」を表現していると感じる。
ピアノは、スタインウェイよりベヒシュタインが良い。
天才音楽家たちが曲に込めた「かなし」を表現するには、このクレモナの地で創られていたガリネリウスの弦楽器と同種のものが、必要だったのだ。
セルブリンが目指す音創りのためには。
小林秀雄の文章に戻ろう。
「彼は、人間の肉体のなかで、一番裸の部分は、肉声である事をよく知っていた。
彼は声で人を占う事さえ出来ただろう。
だが、残念な事には、裸の肉声は、いつも惑わしに充ちた言葉という着物を着ている。
人生をうろつき廻り、幅を利かせるのも、偏に、この纏った衣裳の御蔭である。
肉声は 、音楽のうちに救助され 、其処で生きるより他はない 」
「天才は寧ろ努力を発明する。
凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るという事が屡々起るのか。
詮ずるところ、
強い精神は、容易な事を嫌うからだ
という事になろう」
孤独を感じていた学生時代から、彼の文章に励まされ導かれてきたのだと、今日、思った。
また見つかった、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。
小林秀雄訳 ランボオ『地獄の季節』より抜粋