哲学者アンリ・ベルクソン1 つづき。
『私たちが何を為すかは、私たちがいかなる存在であるかにかかっている、と言うのは正しい。しかし、それにはこう付け加えなければならない。
全面的にそうだとは言えないにしても、私たちが為していることこそ私たちそのものであって、私たちは絶えず自己を創造しているのだ、と』
ベルクソン著『創造的進化』(以下『 』抜粋も同様)
彼の知性は、通常と逆方向に向かう。
通常の思考は、なんらかの解答を求める方向の一点に凝縮していくのに対して、彼は宇宙大を指向し発散し可能なかぎり大きなもので包摂していこうとする。宇宙大に拡張した知性は、論理性というある種「効率性」を帯びたものからの脱却を図らなければ、拡張性を維持出来ない。
彼は言う。
『思考の基本的要求を満たすことに汲々としている科学的習慣と手を切り、知性が自然に下っていく坂道を、精神に鞭打って再び登らなければならない。哲学の役割は、まさにその点にある』
対象物を、全体から切り離してとらえ分析することを拒絶して哲学している。
我々のなかに深く根ざしている(解答を模索する)科学的習慣と手を切れと彼は言う。
だからベルクソン哲学は人を強くする。
スピリチュアルとは、宇宙大に拡張したエネルギーで日常的事象をとらえようとしてきたはずだ。
7つあるオーラの各層毎の役割を大きく言えば、以下のようになる。
1層:「肉体」
2層:「感情」と「思考」
3層:ありのままに観察する「知性」
4層:二元性をひとつの流れに包摂しようとする「ハート」
5層:瞬間瞬間の「魂の計画」
6層:「ひとつである状態」
7層:「天界の計画」
そして、それぞれの層は隣り合う層とコミュニケーションをとる。
肉体は「感情」や「思考の癖」の影響を受け、感情や思考は「ありのままに観る知性」により癒しや気づきを得る。「ありのままに観る」ことから「ハート」の流れがはじまる、
というように。
ベルクソンは3層の「ありのままの知性」を制限なく天真爛漫に用いて、すべてをひとつに包摂しようとする「ハートの流れ」をつかんでいく。
そして5層以上の天界との接点を模索しつながり、そのつながりを失わないように自己探求を維持しようと試みる。
どこまでも日常生活体験に立脚し、その体験中の意識の動きを仔細に見直すことで、包摂理論を創り出そうとしている。
それは、以下のように。
『例えば完成した肖像画は、モデルの容貌や、画家の気質、パレットで溶かれた絵の具の色によって説明される。しかしいくら肖像画を説明するものを知っていたとしても、その肖像画が完成したときにどのようなものになるかは、私たちにはもちろん、画家本人にも正確に予見することはできないだろう。
肖像画が完成する前に完成した肖像画を予測することは、肖像画が描かれる前にそれを描き終える、ということであり、自家撞着した不条理な仮定でしかないである。
私たちがアーチストならぬアルチザン〔職人〕として作り上げている生の各瞬間についても同じことが言える。それらの瞬間は、その一つ一つが一種の創造である。そして画家の才能が、彼が生み出した作品が彼自身に与える影響のもとで形成され、変形され、いずれにしろ何らかの変貌を遂げるように、私たちの状態の一つ一つもそれが生まれた瞬間、私たちが想定している新しい形式となって私たちの個性を変化させる。』
上記はMAMIさんの以下の考え方とも、私が伊豆高原で行う絵を描くセミナー姿勢ともまったく同じである。
自身が描いた絵が私たちの個性を変化させる、その瞬間瞬間が創造である。
また音について以下のように述べる。
『ティンパニの音はひときわ注意を惹くがゆえに、私たちの注意はおのずとその音に向けられる。しかしそれらの音の一つ一つを支え、運んでいるのは、私たちの心的生活という流れの全体である。この流れの帯は、私たちが感じ、考え、欲していることのすべて、つまりある瞬間における私たちのすべてを含んでいる』
彼はティンパニの音ひとつから、自己の心的生活すべてを聴きとる。
さて、このように哲学しているベルクソンをもしエネルギー観察者が観るならば、第三の目と喉、ハートのそれぞれのチャクラが4層ときには5層まで美しく開いていることが観ることが出来るはずだ。
ベルクソンを読みながら、彼のような姿勢こそが、天界が導こうとしている私たちのスピリチュアルな在り方なのではないかと、私は夢想するのだ。
つづく