小林秀雄『モオツァルト』のなかでの私の好きな一節。
『突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやつて来るのではなかつた。海の方から、山の方からやつて来た』
「哲学者アンリ・ベルクソン2」の記事のなかで、ベルクソンの哲学に対する考えを紹介した。
【思考の基本的要求を満たすことに汲々としている科学的習慣と手を切り、知性が自然に下っていく坂道を、精神に鞭打って再び登らなければならない。哲学の役割は、まさにその点にある】
わたしが言う「知性」(オーラの知性層の働き)は、ベルクソンの言う哲学的精神に近い働きだと思って欲しい。
「全体をみて」「細部もみて」「また全体を見て」「自身の変化を観察する」。
分かりやすく言えば、それは何かを「鑑賞する」に近い精神の働き。
絵画でも音楽でも自然でも、鑑賞するときに、わたしたちは「答え」を欲しがってはいない。
色や音、形状、佇まいを通して、自身が感じる感覚を印象を探求している。
「答え」を求める思考は、人類を内的に幸せにはしないし「気づき」も訪れやしない。
ものごとに対しての「探求」と「鑑賞」。
自身の内奥に深く深く照らし合わせながらこれらをすること。
そのとき、オーラ層でいえば、「知性」(第三層)のすぐ隣にある「ハート」(第四層)が動き出している。
ものごとをじっくり鑑賞していると知らず知らず「ハート」を使うことに導かれるように、オーラは出来ている。
自身の再生につながる「気づき」や「感動」は、「ハート」なしで訪れることはない。
ひとは「見て」「観て」「鑑賞する」ことを、進化のために宿命づけられている。