オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

映画『怪物』 考察5-湊1-

前回のつづき

ーー ネタバレあり ーー

麦野湊 早織の息子 主人公 3章は彼の視点で進行する。(写真は公式HPより抜粋)

 

小学5年生で、いまのところ、特に夢もなく、好きな科目もなく、勉強や運動にも特段秀でているわけでもない。

学校や周りから与えられたことを、これまで淡々としてきた。中学受験とて、特にしたいわけではなく、シングルマザーでも子育てをちゃんと出来てると思いたい母親の願望なのだと、薄々分かりながら受け入れているだけだ。

その意味で自主性はない。

 

繊細で傷つきやすく、他人の言葉に左右されやすい。ひと一倍周りの目を気にするため、自分を出せずに臆病になっている。

そして、そんな自分が嫌いでもある。

LGBTであり、多くの人とは少し異なる感性を持つがゆえかもしれないが、学年が上がるにつれ、人と異なっている部分の自我が肥大化し、そんな自分を少し持て余しはじめている。

親友もいない。疎外感も感じている。

シングルマザーで一人っ子というのもあって、過干渉気味に育ち、食べるのも遅い。

 

比較的立派な一軒家の持家に住み、ローン残債は、事故死した父親の団体生命保険で賄われているために問題はない。あまり贅沢はしないが、家賃が必要ない分、貧しいわけでもない。

湊が小学2年のときから私立の中学に通わせる決断が出来るだけの余裕があることを考えると、自動車保険に加え生命保険も別途出ている。

早織はそれらを湊の大学卒業までの学費と結婚費用のために貯金している。だから、いざとなれば、貯金を取り崩して、いつでも弁護士を雇うことが出来る。

母親の面倒見は良いが、本人はいつもどこか孤独である。

 

今回初めて、こころから好きなひとができる。

そのことで、上記すべてが変わる。

そして、本来の自分は「自立」と「自由」に憧れていたことを知る。

 

好きな人が出来ることは、ひとを「生まれ変わらせる」力を持つ。

 

3回に1回温かいコーラが出る話は、湊の、相手に合わせ左右されやすい面を表しているが、小学生の時こそ、こういう嘘に違いないのに本当だったらとてつもなく興味深いので、つい信じてしまいそうな話をするものだ。個人的には、幼少期を思い出し、とても嬉しくなった。

坂元裕二のセリフが光っている。彼は自身のこども時代を、その心情とともに鮮明に覚えているのだと、映画をみて感じる。

 

一章の湊

「音楽準備室」で依里に髪を愛撫されているとき、彼は自分のなかにあるLGBT的側面をなんとなく自覚する。

しかし、それは、母親を困らせることになるばかりか、依里が日頃言っている病気で「豚の脳」になっていくことを意味している。加えて、依里のようにいじめられてしまうかもしれない。

 

これらの「怖れ」から、湊は自宅の洗面所で愛撫された「髪」を切ることで、依里への想いとともに、自身のLGBT的側面の両方を「切る」ことを試みた。

それは、ありのままの自分を否定し、「条件づけ」のなかで生きることでもある。このときの湊は怖れから、「条件づけ」を受け入れようとしていた。

 

朝、起きられない湊に対して母親が心配する。なぜ、起きられないのか。

学校に行き依里と会うと、想いは募る。もはや、依里への想いが引き返せないところまで来てしまい、自分で自分に課した「条件づけ」が失敗しつつあったからだ。

 

父の仏壇前で、「死んだお父さん土かけられたの」と早織に聞く。それは土が生まれ変わりを促進するものと、依里から猫を燃やす際に教わっていたことが背景にある。

「生まれ変わり」とは、「次はこういうのがいいなって思ってるやつ」になれることなので、湊にとって大切なことになっている。

土をかけられていないと知ると、今度は「もう生まれ変わったかな」と尋ねる。

自分の父なので、ひょっとしたら大好きだった父親が「豚」に生まれ変わっているかもしれないとの懸念を持っているから、彼はこだわっている。「豚」とは言ってほしくないので、カメムシやキリンに誘導すると、「馬」と早織がいうので、嬉しくなる。

依里への想いは深まっているがゆえ、そのことを仏前で話すかどうかも悩むが、結局、思い切って伝える。

「どうして生まれてきたの」

(豚の脳(LGBT)になってまで、生まれてきたくなかったよ)

 

三章で分かるが、依里と学校で喧嘩した後、廃線跡地で依里と会うことは、わずかな差で叶わず、早織の迎えの車に乗る。

そこで、「湊が大きくなって、結婚して家族をつくるまでは頑張る」と亡き父と約束していると聞かされる。

このとき湊は、仏前で父に伝えていたのにも関わらず理解されていなかったとの「裏切られた感」を持つ。また母からもこのように追い詰められ「八方塞がり」を感じ、車のなかの閉塞感に耐えられなくなる。

依里からの電話で、彼の声を聴きたいことも後押しする。彼なら決してこんな閉塞感をもたらさない。そして、車から飛び降りる。

 

飛び降りて後、CTスキャンをとらなければならなくなった時、自分が「豚の脳」であることが分かってしまうのでは、と心配する。なぜなら湊は既に廃線跡地で、大好きな依里とのかけがえのない時間を過ごしているから。

このままでは「豚の脳」になってしまう、と若干の怖れをいだきながら、いつも依里ととともにいたはずだ。

病院からの帰り道、依里への想いが、もはや断ち切れないところまで来てしまったことを自覚した湊は、母に「湊は豚の脳なんだ」と叫ぶ。

 

瞬間、母はいじめだと断定するため、誰に言われたと何度も湊に詰め寄り、湊の「嘘」を引き出してしまう。以降、「条件づけ」されている人々が作り出す物語に、保利が翻弄される。

依里は湊が好きなので、湊のために嘘をつき保利を追い込んでしまう。条件づけのない、湊の隣に座る少女は本当のことを言うが、一層それが不利に働き、結果保利は退職に追い込まれる。

 

 

早織が買い物に出かける前後で、湊が「消しゴム」を拾う姿勢のまま固まっている。

保利のクラスの子どもたちが、保利先生についてのアンケートに答えるシーンなどでも、懸命に「消しゴム」を使う子どもたちが映し出される。子どもたちは体制や権威の動きに敏感で、保利先生が首になるであろうことを察知している。

「消しゴム」は過去に書いた文字を消すものであり、「過去を消す」象徴として登場している。

新しくやってくるであろう担任のもとで、過去をどのように修正すれば自分にとって都合がいいのか、子どもたちは自己保身に走りながら懸命に「消しゴム」を使い考える。アンケートでも多くの子どもたちは、事実と異なる回答をし、保利先生を追い込む。

 

それにしても、坂元裕二は、世間で言われる、子どもは純粋で無邪気という「条件づけ」や一般受けではなく、こうした子どものずる賢さや、親からも似たような「条件づけ」をされている姿を、よく観察している。考察を書いていても、その素晴らしい脚本には驚くばかりである。

 

湊が「消しゴム」を拾おうとして固まっているシーンは、それまでに過ごしているかけがえのない依里との素晴らしい時間や思い出を、「消したくない」との思いと、いや、まだ「消せるかも」との葛藤を描いている。

 

台風の前日、涙を流しながら「お父さんいた」「いつもありがとうって言ってた」と早織に伝える。

また、「僕はかわいそうじゃないよ」と、映画のなかで自己受容/自己肯定が出来ていることを示す言葉を、自分の手で母の手を包み込みながら言う。

このとき、湊は「自立」を果たし、母と対等になっている。僕への保護はもういらないよ、と。

 

前日に音楽室で「内的な死」「自己の真実の吐露」をしたことで、彼の「条件づけ」は完全に消え失せ、「自立」と「再生」に向けて歩みだしている。

彼の世界が、動き出す。

そして、彼のなかで、父親も生まれ変わり「再生」を果たした。

 

すべての準備は整ったのだ。

 

翌早朝、湊は「このままの二人で自由と再生へ向けて旅立つ」という「覚悟」をもって、依里のもとに向かう。

依里を救い出すために向かう。

 

つづく