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沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

映画『怪物』 考察3

前回のつづき

ーー ネタバレあり ーー

 

湊の母親 早織:主人公「湊」の母親。1章は彼女の視点から描かれる。

 

映画がはじまってすぐに、ビル火災のガールズバーに保利先生がいた話を、彼女が働くクリーニング店で客とする。

その会話のフランクさから、お互いに学生時代からの同級生であり、諏訪湖のほとりで幼少期から育ったことが分かる。

他人事の噂話を二人が長いことしてきたことは、少し下卑て慣れた感じと噂話する瞬間の互いの顔の距離が異常に近づく、その演技からも伺える。

 

早織は子を思う情は厚いが、「条件づけ」されている人物の最右翼でもある。

ビル火災を自宅でみながら、その消火活動を「がんばれー」と大声でベランダの高みから応援する。(高みの見物)

多くの事柄にたいして共感を持たず、我が事として捉えるのではなく、他人事として安全な場から常識的発言を繰り返す。

だから噂話も好きだし、それを信じてもしまう。

早織は男っぽい自分が好きで、少しだらしなく品もないところを、自宅での服で表している。依里もよく着るオーバーオールやダボダボのトレーナー姿だ。もしかしたら夫のお古を着ていることを表しているのかもしれない。女性としての魅力には興味がないし、気を回さないことを示している。

加えて早織は本もあまり読まず教養もないため、語彙が少ない。そのため、同じ言葉を何度も重ねて、その重ねる回数によって、気持ちの程度を表現するしかない。

 

子どもの「湊」が教師からハラスメントを受けていると思い込んでからは、共感性を持とうとしはじめる。依里の自宅を訪問するなど、噂も簡単には信じないで、自分の目で確かめようともしだす。

しかし、犯人を探しそれを排除すれば解決するとの、単純な二元論から離れられない。ある種の世間の決まり事に従っている人だ。だからその決まり事のなかで「頑張る」ことが大切になる。

だが、それは湊を苦しめ追い込んでいく。

 

男くさいスポーツの代表であるラグビー選手であった夫が、ダサい"のぐちみなこ"と温泉に行く途中に事故死している。そのことは、世間の決まり事に従っている早織の考えのなかでは消化出来ないので、なかったことにしている。

そのため夫を必要以上に美化する。

それは、既に亡くなっているにもかかわらず誕生日ケーキを毎年用意したり、ことあるごとに夫を話題に出したり、ラグビー自慢などにあらわれる。そこに湊を巻き込む。

自分のことを、男らしくないと思っている湊は、そのたびに傷つく。

 

弁護士まで雇い、保利を退職に追い込む早織だが、最後の最後で保利の善意の力により、彼女はすべてを理解する。

 

湊が言っていた「生まれ変わり」は、LGBTであることの苦しさから自死をも厭わないことなのかと思ってしまい、「生まれ変わりってなに」「生まれ変わりってなに」と何度も呻きながら、嵐のなか、保利とともに廃列車へと向かう。

 

しかし、保利は、ふたりは死をともなって「生まれ変わる必要のない」ことを確信している。

「ありのまま」は、そのままで「正しいこと」なのだから、自死する必要や死を伴う生まれ変わりの必要などない。今のままで「なりたかった自分」になれば良い。そうなれるのだ、と。

ここで、保利自身が小学5年のときに書いた作文を授業中に朗読するシーンが生きてくる。朗読後の保利の顔は晴れがましく輝いている。

「僕は生まれ変わったんだ。.......... 西田ひかるさんと結婚します」

生きながらにして生まれ変われることを、保利は知っているひとして描かれる。

 

『怪物』のなかで、物語の最初から「条件づけ」をされていない人物が3人いる。

・保利先生

・依里

・湊の隣の席に座る少女

 

少女は、映画のなかで主人公二人(湊と依里)を守る庇護者として、存在している。

クラス(教室)の荒々しい環境から二人を見守っていて、その時々の最善の判断をする。

ただし、時が経つにつれ湊を好きになってしまい、依里との関係を嫉妬するようになる。

保利から、湊に不利な証言を頼まれたときも、条件づけされていないがゆえ、言下に断ることができる。

 

『怪物』主題

4つの構成で出来ている。

1.様々な条件づけにある人々や組織。

2.自然の力(地水風火)による浄化。

3.「内的な死」と「自己の真実の吐露」。

4.「気づき」「覚悟」による「再生」。

 

地水風火について。

「地」は、死者に土をかけての生まれ変わりの促進。山。土砂崩れ。

「水」は、金魚の水、台風の嵐/雨、お風呂の水(子宮と羊水)と排水溝(産道)。

「風」は、依里の持つ「うなり笛」、台風。

「火」は、依里の持つチャッカマン、ビル火災、猫の死体への火。

 

「内的な死」と「自己の真実の吐露」

これなくして、ひとが変容/再生することはない。

本当の死ではなく、(間違った)過去の自身のあり方そのものの「内的な死」の経験が必要になる。少なくとも、その覚悟が必要になる。

「自己の真実の吐露」によって、自己受容に向けての大切な一歩を踏み出せるからだ。

 

「内的な死」と「自己の真実の吐露」の時間的前後は問わない。

真実の吐露(告白)を通して「内的な死」を迎えるのが、通常かもしれない。

この物語で「再生」を遂げる者たちは、この段階を踏み、その後何かしらの「気づき」「覚悟」を得て、自己再生を図る。

 

「再生」とは「生まれ変わらないで良い」ということ。生きながらに「再生」して「なりたい自分になる」「次はこういうのがいいなっておもってるやつ」になること。

依里は、あまりの現実の辛さから「生まれ変わり」や「ビッククランチ」を信じて待つことで、自分自身を保っている。

彼の言う「生まれ変わり」は「こうだったらいいなって思っているやつになれる」ことだから。

 

うなり笛とチャッカマンを持つことは、「生まれ変わる」ための道具でもあることに加え、「風」と「火」を持つことでもある。これらによって、虐待やいじめの辛さと痛みを浄化しながら、なんとか生きている。

だが、依里の言う「生まれ変わり」は「生きながら」の再生ではない。

また彼の父親は、チャッカマンを使って依里を虐待している。「豚の脳」を生まれ変わらせる、病気を治してあげる、などと言いながら。

 

 

この虐待がもっとも酷くなるのが、湊が2度目に、依里の家を訪問した日で、僕は病気(豚の脳)が治ったから引っ越しをすると湊に告げるものの、「ごめん、嘘」と勇気をもって自己の真実を告白する。

このシーンは父親が依里を虐待するために、家のなかに引きずり込むシーンで終わる。その後のチャッカマンでの火炙りの火傷のあまりの辛さから、依里は身体を風呂場の水(子宮と羊水)で冷やしながら気を失っている(内的な死)。

 

翌朝、湊が助け出しにきて、風呂場からなんとか依里を介助し風呂から引きづりだし(出産介助)、依里は生まれ変わり新しい命を得る。

こののち、依里の過去のすべての傷は癒える。

 

依里のもうひとつのアイテム、うなり笛は「音」まで出る。

そしてその音は台風の襲来を予感させる音でもある。ビッククランチを招く音でもある。

 

映画冒頭のビル火災は、もちろん、依里の仕業ではない。

猫の死体など、すでに死んでしまったものに「土」をかけ「火」をつけて「生まれ変わり」を促してあげる。生きている状態での「火」の痛みは、痛いほど依里には分かるから。死んだ猫を「なりたい自分にならせてあげる」優しさこそが、依里なのだ。

(注)ビル火災時に湖の対岸にいる冒頭シーンからしても、時間的に無理である。

 

早織は、はたして「再生」するのかどうか。

私は保利の良心と善意の力によって、再生するのだと信じている。

 

彼女は映画のなかで「内的な死」を2つの側面で迎える。

一つは、保利先生の持ってきた作文によってすべてを理解し、湊と良く対話もせずに軽はずみに結論をだし、大きな事件を作り出してしまったことの反省と保利先生への許し。

もう一つは、台風の日に湊が廃線跡地ですぐには見つからないこと。

 

あとは彼女がこの後、どのように保利を通して知った「真実を吐露」し「再生」していくのか。

私たちのイマジネーションにかかっている。

 

つづく。