オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

映画『怪物』 考察4

前回のつづき

ーー ネタバレあり ーー

伏見校長

 

以前は凄腕の、ある意味、本物の「教師」であったが、校長という管理職側になり、子どもに対しての直接の指導から離れた。多くのモンスターペアレントを相手にし教育委員会との板ばさみのなかで、相手の目を見て話し、ひとと真摯に向かい合うことを辞める。このつらい世界から自身を鈍感にするために、殻にこもるようになった。

「目を合わせない」彼女は、そのうち、目が死んでしまう。

音楽室で湊と対峙し指導して以降、はじめて「目を合わせる」ようになる。

 

拘置所の接見室での校長と夫とのやりとりが、分からない。

しかし、家族が離散しつつあることと校長が孫を愛していたこと以外は、この夫婦のやりとりは「分からなくて良い」のだと思う。

なぜなら、夫婦ともに「こころ、ここにあらず」でいるから。互いに「目を合わせない」でそらしながら会話をする。二人とも「いま、ここ」に、いない。

夫はなんでも「なるほどね」で。

校長も、人と話をしているとき、折り紙をおったり、手に何かを持っていたりメモしたりで「いま、ここ」からの「逃げ」をつくる。真摯な対話は避ける。深く関わらず鈍感でいようとする。二人は、深く内面に入らずに、たんたんと言葉のやりとりをすることを大事にしている。

 

「音楽室」でホルンを手に取り、トロンボーンを湊に教える過程で、はじめて「いま、ここ」に戻り、真摯に相手と対峙する。全国大会に生徒たちを導いた、凄腕の「教師」に戻る瞬間である。

 

このとき二人が奏でる音は、音程など何も気にしていないでただ内的なものを出している。音楽教師だったときも、生徒にまず楽器との一体感を持たせ、うまさや正確さではなく、曲の気持ちや意図を汲み取る指導をしていたことが伺える。本来、彼女はテクニックや技術ではなく、ひとの「気持ち」を大切にする「ひと」として描かれる。

 

 

吹奏楽部の演奏で生徒たちを全国大会に導くためには、わずかな音程の乱れ、リズムやハーモニーの乱れに気づく、並外れた注意力と観察力を持っていなくてはならない。その力を、このときまで封印している。世間から鈍感でいようとするために。

 

思えば「音楽準備室」で、依里が湊の髪の毛を愛撫することから、この物語ははじまった。あれはまさに物語の「準備」だった。そして「音楽室」でのホルンとトロンボーンの音により、大きく動き出す。しかも校長は「音楽の先生」だった。

 

保利が映画の主題(主旋律)を牽引していくすると、校長は、当初の皆が好き勝手に不協音をかき鳴らすなかから、ハーモニーを形創くる。

ハーモニーとは「音の連なり」であり、ここではひとの「気づき」のつらなりであり、そのひとの「気づき」のつらなりが、いつしか「天」にまで届いていく。

それを指揮するのが彼女なのだ。

 

湊の母、早織が、学校に乗り込んでいくとき、車を駐車させるシーンがわざわざ映し出されている。バックモニターのない車にもかかわらず、後方への注意がいつも足りない。時に車をぶつけてもしまう。

校長自身も、後方への不注意から孫を轢いてしまう。

 

早織と校長は類似点を持つ。

1) 条件づけされている:対話はせず真実は探究せずに、子どもを守る/学校を守る。

2) 注意力のなさ:前しか見ず視野が狭い。思い込みが強い。鈍感。

3) 「いま、ここ」にいない:噂話好き/真実はどうでも良い。

これらが同じであるゆえに、二人は一致点を見いだせない。

ただ同じ条件づけ下にある人間の弱いところなら分かる。だから孫との写真を、早織の見えるところにわざと置く。

早織も校長室で「これじゃ転校するしかないじゃん」と、教育委員会を巻き込むことを暗に匂わせ脅しコントロールしようとする。あるいは、小2の時の担任を必要以上に持ち上げて、自分はモンスターではない常識人であることをアピールすると同時に、相対的に保利と校長を貶めようとする。

 

スーパーで走り回る子どもに、校長が絶妙なタイミングで足を出して、こどもを怪我させない程度に転倒させるシーン。このときの校長はまるで後ろに目がついているかのよう。本来彼女が持つ注意力/観察力が、完全に復活している。早織とも「目を合わせ」会釈をする。早織に転倒させるところを見られたことには、罪悪感は感じていない。

早織は、校長と目が合ったことに意外さを感じている。

 

校長の孫のような交通事故被害者となることを防げるならば、スーパーで転ぶくらい、なんのことでもない。子どもの性質を良く理解していて、360° 後ろにも目の行き届く、凄腕教師として、善意から子どもたちに学びをさせようとしている。

時系列的に音楽室での後ならば、彼女は凄腕教師に戻っているので、スーパーでの出来事は上記の解釈となる(8/14付下記注参照)

 

 

さて、登場人物のなかで以下3人は確実に「再生」を果たす。

・保利先生 ・湊 ・依里

校長はどうか。

田中裕子の音楽室と台風時の橋の上の演技から、校長が「再生」を果たすのは間違いないのだが、映画のなかに彼女の「再生」に向けての「あるべきシーン」がない。

「あるべきシーン」とは、校長自身が「内的な死」を迎える場面。

しかし、校長の言葉を拡大解釈するならば、「内的な死」ととれるシーンがある。

湊が「僕、嘘つきました」に対して、校長の「そっか、一緒だ」とそれにつづくシーン。

 

「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。

しょうもない。しょうもない。

誰でも手に入るものを幸せって言うの」

 

 

校長が孫を轢いていたのだとすると、その意味は、

わたしは夫を身代わりにして、校長の地位を保ったが、まったく幸せではないの。しょうもない。しょうもない。本当のことを言って、そのうえで誰にでも手に入るものを幸せっていうの」

湊に向けての意味は、

保利先生を犠牲にして、あなたが幸せになることはないの。しょうもない。しょうもない。本当のことを言って、そのうえで誰にでも手に入るものを幸せっていうの」

 

校長は両方の意味で言った。だから、あの音が生まれる。

1を含むならば、これは告白であり、校長が孫を轢いていることになる。校長という立場の「死」を意味する。彼女は「内的な死」を迎え、台風の日に「再生」に向けて歩みだす。

 

映画では、誰かの「内的な死」は誰かの「気づき」や「覚悟」に繋がるという、重層構造になっている。一人のヒーローがすべてのひとを救うのではない。お互いに救い合うのでもない。ひとりのなかで完結するのでもない。

関係性が閉じていないのだ。開かれている。おそらく天に向って。

1) 保利の校舎屋上での内的な死は、作文を知り湊を深く理解するという早織の気づきへ。

2) 依里の自宅風呂場での内的な死は、湊の、このままの二人で自由へ向けて旅立つという覚悟へ。

3) 湊の階段落下での内的な死は、保利の正しさと自身の正しさを貫こうとする校長の覚悟へ。

4) 校長の幸せについての告白での内的な死とホルン、トロンボーンの音による二人の真実の吐露は、屋上にいる保利先生の、自分は正しいと分かってくれている存在がいるから生きよう、という気づきへ。

この「気づき」の螺旋状のつらなりは、天に向かっている。

このハーモニーを創りだしたのが校長だ。

 

嵐の日、校長は自首するはずだ。誰でも手に入る幸せと自身の「再生」のために。

田中裕子の雨に打たれる演技は、その「覚悟」を示している。

ここから、彼女の離散しつつあった家族の、「再生」に向けての物語もはじまる。

 

つづく。

 

(8/14付注)

シナリオでは確かに音楽室後だが、映画では2回目の校長室訪問後なので、以下の5つになる。

1)校長は孫を轢いていない。

→ 校長の「内的な死」と「覚悟」が学校内でのことを通してのみとなり、インパクトが薄くなる。台風の日の田中裕子の演技の行き場を失う。

2)孫を轢いたあとに360°の注意力が復活し「目も合わせる」ようになる。

→ 校長室3,4回目でも「目を合わせない」ので矛盾が生じる。

3)鈍感になった後も指導魂は失われていなかった。

→ これはない。

4)撮影時には服装が夏なので、音楽室後として当初シナリオどおりに撮影した。ただ編集時に、視聴者には分かりにくいとの思いから校長室2回目後とした。 

→ そうだとしても5)になる。

5)私には、いまのところ作品全体の筋が通る理由は見いだせないでいる。