「かつて在ったものは、在りつづける」
その概念としてのアカシックレコードについて、哲学者ベルクソンは語ってきた。
意識の開放性は多くの方が実感しているだろう。
この開放性に基づいて、「かつて在ったものは、在りつづける」とすると、意識は拡張しつづけることになると同時に、内部や外部を持たないということになる。
内部や外部を持たない理由は、意識が時間や空間といった物理的制約に縛られないからだ。
この無限の自由度が、私たちが体験する現実(物質)世界の多様性を生み出し、また、過去や未来、他者とのつながりなど、時空を超えた体験を可能にしている。
内部や外部を持たないということは、ある意味、私たちが体験しているすべてのものを包括する存在であり、偏在していると言える。
誰の意識とて時空を超えて遍在しているのだとしたら、すべてはひとつの意識に内包されることになる。
同時にひとりの意識にも、すべてが内包されることとなる。
それは、宇宙のすべてとつながっている無限の存在と言えるだろう。
だから、ひとは誰でも自身の意識に深く触れることで、自己や魂、天界との深い繋がりを感じられる。
それは、意識が内部も外部もない無限の存在だから。
物質の認識とて意識の作用であるのだから、物質も意識の集合の一部として位置づけることが出来る。
すると、「認識という意識の働き」のないところに、この世界(物質)は存在しないということになる。
だから、「すべては意識である」というのは、文字通りの意味でそうなのである。
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遍在する意識下では、不断の生成がなされつづける。
この遍在した不断の生成作用が生命(意識)なのだとベルクソンは言う。
生命意識を感知するには、物質認識の働きを静かにしていく必要がある。つまり、思考や感情を静かにしなければならない。
ベルクソンは、この不断の生成作用を「持続」となづけ、探求しつづけた希有な哲学者なのである。
この不断の生成作用が、アカシックレコードの概念とも深く関わっている。