オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

こころざしの世界

昨日の記事のつづき。

 

どのような場合でも、意図や動機が大切。

この世界で鏡の法則として実現されるのは、行為ではなく意図の方が、その割合は大きい。

 

他者に働きかけるときの「動機」や「意図」と、自身に働きかけるときの「動機」や「意図」に違いがあるならば、その違いを「他者」「自己」として別々に記述しなくてはならない。違いがないならば、そのひとはもはや、他者と自己について同一化されている。

 

「自分に厳しく他人に優しい」ひとの場合、「自分に厳しい」の背景にある「意図」と「他人に優しい」の背景にある「意図」に違いがあるかないか。

意図において、「自分に厳しい=他者に優しい」が成り立つのかどうか。

ちなみに、他者に優しくするために自分に厳しくする、は等式ではない。それは前提条件を記述しているに過ぎない。

 

さて、自身の意図をさぐり、“他者に優しくするのは、他人に喜んで欲しいから、他人の幸せがみたいから。”と理解したとしよう。

自分に厳しくするのも同様に、“他人に喜んで欲しいから、他人の幸せがみたいから”ならば、意図のうえでの等式は成り立つ。が、そうではないはずだ。文としても破綻している。

だからこの場合、意図において等式は成立しない。

 

「自己」の範囲がきわめて大きなひとは、他者に働きかけるときの「動機」や「意図」と、自身に働きかけるときの「動機」や「意図」に違いはほとんど生まれないのだろう。

「自己」の範囲がきわめて大きいとは、主語の崩壊であり、運動(述語)のみが記述されていく世界である。

 

この主語のない「運動」の記述は、ベルクソンがいうところの「持続」と同じことを指していると、私は思う。

「持続」の運動エネルギーに意識を向けているとき、「自己」はなくなっている。オーラの運動に意識を向けているときも「自己」はなくなっている。

 

つまり、スピリチュアルにおいて良く言われる「他人も自分」という言葉は、「自己」と「他者」への行為などの意図に違いがなくなった人についてのみ、有効な言葉である。

 

天界においては、また悟りを得た人にとっては、行為においての意図に違いはないだろう。それはなんとなくでも想像できると思う。

しかしそれをこの物質世界で行うのは至難である。

 

だからこそ、そのような「こころざし」があるならばいずれは悟りに至れるように、少しだけ甘くなっているのだと思う。完全に一致していなくともほぼ同じであれば悟りを開いたとして良い。なぜなら天界は(主語の崩壊した)「こころざしの世界、意図の世界」だからである。

 

 

本題に戻る。

なぜ、“他人に優しくするその前に、まず自分を充たさなくてはならない”とスピリチュアルの世界では良く言われるのか。

それは「自己」に目を向けることが大切だからです。デルフォイの神殿ではないですが、「汝自身を知れ」がすべてのはじまりです。幸せも、やすらぎも静けさのある人生もすべて「汝自身を知れ」からはじまる。

 

「自己」を知り「自己」に意識の光をあて、より深くみていくとき、その内奥に「宇宙」があらわれてくる。

逆に言えば「自己」を観ることなく「自己」をおろそかにしていては、「宇宙全体」「天界」にいつまでも辿り着けない。

「自己の外側」には宇宙も天界もない。

「自己の内奥」を通してしか「天界」は存在しえないし「幸せで静けさのある人生」も存在しない。

 

「自己の内奥にある天界」に立脚してなにか行動を起こすとき、たとえば他者を支援するとき、主語は喪失して、ただ運動だけが残っていく。

あなたを通して天界も他者を支援することになる。

 

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セドナ キャセドラルロックからの眺め