自分に厳しく他人に優しくあろうとする人がいる。
スピリチュアル的に言うと、他人に優しく貢献するその前に、まず自分を充たさなくてはならないということになる。だからこの場合は他人に優しくする前に自分に優しく、ということになる。
セッションをしていて、納得いかないものがある。
スピリチュアルな視点で言うならば、自分も他人も含めての自分だから、自分はさておいて他人に優しくすることも、大きな意味での自分を愛することにつながるのではないかと思うのがその理由。
同時に、他人に優しいということ自体に倫理的問題はまったくない。
社会的にも、以下の順が望ましいと思われているのではないか。
1.自分に厳しく他人に優しい。
2.自分にも他人にも優しい。
3.自分にも他人にも厳しい。
4.自分に優しく他人に厳しい。
これだと「自分に厳しく他人に優しい」は社会的望ましさトップに位置する。
セッションではそこを否定していくことになる。
だから私は個人的に納得がいかない。
確かにオーラやチャクラを観ても、自分に厳しいひとは、チャクラがなかなか開いていかない。自分に厳しいとは自分に課すルールや制限が多いということでもあり、チャクラが開く方向とは相容れなくなってしまうからだ。
そもそも論として、チャクラが開くメカニズムは、この地球上でのルールやしきたりに沿っていないのかもしれない。あくまでも次の高次元に向かうための方向性を示しているのであって、この次元での高みとは異なるのかもしれない。
そこで“他人に優しく自分に厳しい”過去の偉大な聖者の出番となる。
その聖者の周りのものは信仰を組織化し宗教としていく。
宗教は“他人に優しく自分に厳しい”をコード化することで、組織維持を容易にしていく。
国家も組織なので、その組織維持のために“他人に優しく自分に厳しい”をコード化したい。
なるほど。
納得いかない私自身が、国家からコード化されていたのかもしれない。
だが、それでもなお、「他人も含めての自分」問題は残る。
次回につづく。