前回の記事を実際のセッション例をもとに別の視点から。
過去の個人セッションのやりとりを一部以下に記載します。(ご本人了承済)
クライアント ⇒ ク)
カウンセラー ⇒ 私)
ク)はじめまして。
これまで様々なスピリチュアルセッションやセミナーを受けてきたのですが、何か充たされない思いがあるのです。でもそれが何か分からないので、知人の紹介でここに来ました。
漠然とした質問ですが、どのようなことでもいいので何かアドバイスをいただけたら嬉しく思います。
私) 出来るようになると嬉しかったりすることや、あるいはこのようでありたいと思う自分の理想像のようなものはありますか?
ク)私はいつも自分を大切にしてないって思っているので、自分を大切にすることが出来るといいと思っています。
私) そのように思っているのはなぜですか?
ク)自分を大切にすることがどうすることなのかわからないのです。
それは、大切にされてこなかったという気持ちが大きいからなのかなと思います。
私)ではあなたにとって大切にされるって、どういうことになるのですか?
世間やスピリチュアル界で言われている「自分を愛する」といった概念から少し離れてみて、いま自問自答のなかで考えてみてください。
ク)「守る」とか「育む」とか「気に掛ける」とか「幸せを感じる」などです。
私) ひとつずつ観ていきましょう。まず「守る」ためにはどうしたらいいのでしょうか?
ク)自分を守るために、自分は何を必要かを知っていることが大切だと思います。
私)「育む」はどうですか?
ク)自分が大切にしているものがあることを分かっていることだと思います。
私)「(自分を)気に掛ける」は?
ク)そのときそのときの気持ちを感じて向き合っているか、分かっていることかと思います。
私)「幸せを感じる」は?
ク)大丈夫だとわかっていることで、そう感じることです。
私)「感じる」と対極にあるもの、感情ではないものはあなたのなかでどのようなものでしょう。
ク)あー!「判断」
私) どういう判断?
またどういう判断が気持ちじゃないと思う?
判断するって具体的にはどのような判断?
ク)楽しい気持ちを感じているから「良い」こととか、悲しいから「悪い」とか。
私) そうだね いい悪いだよね。確かにいい悪いの判断は、気持ちじゃないですね。
ク)ということは、楽しいって思ってそれは良いことだと判断したり思ったら、、
私) そう。判断したらもう、気持ちから離れてしまって気持ちじゃなくなってる。良いだけになってる。
私) 君のなかにある大きな善悪の判断の集合のなかに、気持ちもあるし好き嫌いもあるし感覚もある。もっと言えば「考えていること」すらも善悪の範疇のなかで考えている。
判断(いい悪い)なしで好きも嫌いも感じていくといいし、判断なしで 感覚も感じなきゃいけないし感情も感じていかなきゃいけないんじゃないかな。
判断を離れてはじめて切りのない探求も出来る。
いい悪いというなかに全部の気持ちを位置付けてきた。だから気持ちや感覚が自由に動けなかったので、充たされない。
いい悪いを全部やめていかないといけない。
出来ればいますぐに。
本当にやりたいことのためには、いい悪いから自由になること。
なぜならそのことがすべて「守る。育む。気にかける。幸せを感じる」につながっていくから。
このいい悪いから自由になって、それでも残るものを大切にして、残るものと向き合うことが、自分を大切にすることとイコールになる。
ク)何かがそれでも残るってことですか?
私) いまここの、ありのままの気持ちが残ります。
だから最初に一番大事なのは、いい悪いの判断をしている自分に気づくことです。
今私は判断しようとしているのでは、と懐疑的になることです。
どんな痛みのなかにも愛はあり、どんな悲しみにも愛はあるから、一概にいい悪いはないのです。
ただ、その判断するまえの「ありのまま」を感じてほしい。
そうする事で、自分を大切にするようになっていく。
自分は感覚や感情でもあるのだから、それらを全部いい悪いに押し込めているのは自分を大切にすることではない、ですよね?
(「良い」「悪い」の二つの集合のなかに、押し込めてきた具体例を図解したものを示しながら)
ク)なんか、自分のなかの仕組みが分かりました。図解して書いてみると良くわかります。
長年の疑問が解けたように思います。
私) ありのままの自分の気持ちや感覚を感じていくと、ただ観ているものに対しての感謝や美が分かるようになってきて、人生に彩りと自由がもたらされます。
哲学的にいうと、これが「実在」の力なのです。
自分という人間(実在)を判断や思考で裁断することなく、五感や六感という肉体に根ざした感覚を通して、事物や自然、生命の「実在」(神性さ)に迫っていく。
「実在」の奥深さに迫っていく。
そのとき「ひとつながり」がすべてのもののなかに感じられるようになります。
その「ひとつながり」の様を観ることが「オーラを観る」意義でもあります。
*8月に年一度のオーラセミナー開催予定。
その意味で「オーラ」は「実在」の一側面だと思っています。
すべては「流れ」のなかにあって、すべてに魂や神性も内在していて、これらとふれあうために生きているのだと思います。
これらにふれあわないのは、「事物」や「自分」のほんのわずかな一部分にしか触れあっていないことになるでしょう。
これらに十分触れあってからのち、判断や思考を動かすのはいいと思います。
判断から実在に至る道はないのですが、実在から自分なりの判断や考えをつくる道は無数にあります。
その実現を支えるのが自由意思です。