感覚や気持ちを、善悪の判断で押し殺さない。
感覚や気持ちは、なにより「ありのまま」のものでそれがゆえに、自分自身の内奥に到達するための道しるべとなる。
内奥に導かれれば導かれるほど、人生はシンプルになり、感覚器官を通して観るもの、聴くもの、触れるものへの感謝の念は自然と湧き起こる。
一生懸命観ると、そして観ること聴くことを思考に邪魔させずに行うならば、それは、なぜか反転して自ら自身を観る目となっていく。
「美しい」と感じているのはどのような働きなのか?のように。
この反転が「和」を生み「神性」を生む。
なぜなら自己の内奥は「和」しているから。おおきなひとつながりにある「神性」であるから。
私たちは、知らず知らず「(善悪の)判断」で感覚器官を制御している。
すると、「ありのまま」は手から離れ、思考によって裁断される。
裁断されるものには「和」も「美」もない。
「(善悪の)判断」は占有を目指す。「和」するものは「存続」を目指す。
判断はいずれ「善」で埋め尽くそうとする。そのようにこころを裁断するしかないのが論理や思考のやっかいなところだ。
こころや感覚は「判断」によって虐げられる。
感覚器官は肉体に属している。
気持ちも含めて繊細に感知している感覚は、肉体を精神につなげている。
それが判断によって断ち切られるていく。
肉体も尊ばれなくなる。
このプロセスの積み重ねが、心の安寧を妨げ、肉体も含めた自己を無価値なものと見なすようになる。
そして、争いや国家間の戦争に帰結していく。
感覚やこころ、気持ちこそが肉体に立脚した「わたし」であり、そこを尊重して、そののち精神や思考につなげていくことが、こころの平安につながっていく。