質問
オーラは、どんな風に見えますか?
回答
量子力学の世界では、量子のふるまいは「観察者がいるかいないか」が決定的に大切となります。
光は、観察者がいない状態では「波」(多次元性が維持されている状態)ですが、観察者がいる状態では「粒子」(3次元的状態)となります。
(量子の二重性と呼ばれています)
断続的に観察したり、観察する人はいない状態で情報だけ入手しても、情報をしばらく経ってから入手しても、そのようになります。
(量子の非実在性と呼ばれています)
観察(情報の入手)により、ふるまいが「確定」してしまう。
観察するかしないかで、存在のあり方、もっと言えば「多次元性」か「3次元性」かの違いをもたらす。
誰もが認識出来るわけではないとはいえ、オーラもそれが光である以上、同じようなふるまいをすると考えています。
私が観察する(オーラを観る)か観察しないか(オーラを観ない)によって、状態は変化していく。
私も含め誰一人として観察していないときのオーラはどのようなものなのか、それは観察していないがゆえに永遠の謎です。
「状態」についての情報は、実は、観察するものの状態を、あるいは観察されているもの含めて双方の相互作用に影響を与えているのかもしれません。
私たちは、誰が観ても同じである客観的な事実としての状態が存在しているはずだ、と思っています。
ミクロ以外の領域では、実際そうなのでしょう。
机と椅子が置いてある部屋を、ゾウと蝶が飛んでいる部屋とが、観る人によって変わることはマクロの世界ではありません。
ですが、ミクロの世界では、一概にそうはいえないのかもしれません。
観察者のあり方や意図によって、そして例えばオーラならば、そのオーラ情報をどのように活用しようとしているかという意図によって、見え方は異なってくるのだと思います。
そして、マクロだけの世界というのはこの世界に存在しません。光が二重性を持つがゆえ、どうしてもそうなります。
オーラセミナーで、ある人のオーラを複数人で観るとき、細かなところでは分かりませんが大きな特徴では一致します。
それは主催者である私が、参加者(観察者)の意図をある方向に一致させているからだと思っています。
私の観るオーラの状況は、観られている人の状況を映し出していると同時に、私の状況や、二人の相互作用を映し出しているのだと思います。
もっと言えば、そこに存在するすべての人の相互作用、それは、妖精や天使や魂、スピリチュアルマスター、守護霊などを含めたすべての相互作用がもたらしているものを、私が観ている、そう思っています。
さて、夜中にトイレなどで目覚めると、時折、部屋中が幾種類もの光の渦に包まれていることがあります。
その渦は大小様々にあり自分の身体を取り囲んでいる渦から部屋を大きく取り囲むもの、そして目の前であたかも小宇宙のように銀白色の光を放ちながら螺旋運動をしている光の粒子群です。
これは空間だけでなく人のオーラを観るときも同様な見え方をしています。
さて私は最初、美しい色の光り具合に意識が向くかもしれませんが、少し後に、たとえば螺旋の渦の運動に目を向けるとします。
すると、その運動状況が、一層克明に見えてきます。
しばらく観ていると、高速運動そのもののなかに引き込まれそうになります。
それは、次元を超えていく感覚です。
すると今度は真っ白な膜の光にすべてが包まれていきます。
こうなるともはやオーラではありません。また別の次元に入っています。
それが、何かは分からないのです。
そこで、少し意識を現実に戻して、再びオーラを観るとします。
それでも、色ではなく運動を観てしまいます。
意識をより現実世界に戻します。
そのとき、色やオーラを構成する7つの層を観ています。
それぞれの層が5mmほどの層膜で区切られ、そのなかを川の流れのようにエネルギーが動いています。
そしてその層膜も、ゆったりと脈動していて絶対的なものではありません。
色を観たいと思うときは、チャクラの運動から意識を離し、全体を3次元アートを観るときのような状況でとらえようとします。
ただ、色を観ているときは神聖さが他の見方と比して足りていないと感じます。
運動こそが生命の本質だからだととらえています。
それぞれ得る情報は異なりますが、意識を高いレベルに持って行っているとき(持って行かれているとき)の情報にこそ、価値があると感じています。
セッションなどでは、チャクラの運動に意識が向きます。
そこで得られる情報が大切だからなのだと思っています。
ベルクソンは次のように言います。
「<知覚の場所>なるものがあるとすれば、それは当の知覚対象がある場所そのもの」
つまり、私がオーラを観ているとき、それは私が網膜に映るものを脳内で処理してみているのではなく、オーラそのものの場で観ているのだ、ということです。この考え方のあまりの斬新さに驚くと同時に自分の体験と照らし合わせた際に、ハッとさせられました。
私はオーラを観ているとき、上記のようにオーラそのもののなかに入って、観ている感覚となります。
それは確かに、「オーラのある場」において「オーラを観ている」といえるものです。
音もそうではないでしょうか。音そのもののなかで聴いているかのような感覚を持つ人も多いと思います。
音の場に入り込んでいく。
自分の過去の状況を思い出すとき、私たちは自分自身の背中側の斜め上後方から観てはいないでしょうか。
自分のエネルギー場のなかで自分を観ている状況で、自分を思い出しているのではないでしょうか。
自分の場に入り込んでいる。
私たちは、実在のそれぞれのエネルギー場において知覚している。
そう考えると「観る者」は誰で、「観られる者」は誰なのか、という状況になってきませんか。
本来、「観る」とはなんなのか。知覚とは何なのか。わたしたちの意識とは何なのか。
私たちは偏在しているのか。
話が少し脱線しましたが、私は、そのようにオーラを知覚しているのではないかと思っています。
楽 園
鳥たちの朝の語らいに
耳を澄ませば、
心がふわっと
舞い上がる♪♪
Art Swing より