エネルギーブロックに言葉が付帯してしまうのは、なぜか。
以前の記事 「葛藤の発見」では以下のように記載しました。(追記あり)
【人類のブロックの大元は、自分は完全/完璧ではないという「罪悪感」にも似た感覚です。なぜなら、完全さと平安さとともにある「すべての源」のなかに長い間にわたっていて、あるとき、そこから自らの意思を持って旅立ってきた存在がわたしたちだからです。
「罪悪感」というと宗教的な感じがするかもしれません。「罪悪感」といわずとも「自分が悪い」「自分のせいだ」「自分が未熟なのだ」「自分はダメだ」という想いといえばいいかもしれません。
多くのひとは、こうした言葉を自分自身に対して一日に何度も使っているのではないでしょうか。
ブロックの大元の根っこが罪悪感だとすると、その幹にあたるものは「分離感」です。
「分離感」とは、(本当はすべて「ひとつながり」なのに)自分と他を分けてとらえてしまう感覚が強く、そこから比較をし自分は完全ではないので、自分をなんとかしようと思います。
そして「自分」という概念を強め、自分と他という区別を大事にするようになりました。
「自分はダメだ」と感じるがゆえに今度はその真逆として「自分は大丈夫だ」と思いたいがためです。
あるいは他者から責められないように、他者に必要以上に貢献しなくては、他者から評価されなくてはと思います。
このため自分と他者を区別する「分離感」は一層強くなり、「分離感」を自分で大きくしていってしまいます。
結果、他者に貢献出来なかったり喜んでもらえないと、自分はダメだとまた逆戻りして「自分はダメだ」と思うことになります。
「罪悪感」と「分離感」の無限ループに入っていきます。
「分離感」を幹として、他の様々なブロックが枝葉として生じていきます。
分離感から派生したブロックとして、たとえば「自分の力を発揮しては結局他人を傷つけてしまう」という言葉が付帯しているブロックは、この無限ループの派生として生まれてきたものです。
内面の様々な葛藤も「なんとかしたい」「成長したい」「わたしはこうしなければ」といった「自分」と「他」の分離感をベースとして生じていることが理解されることでしょう。】
さて、このブロックの例でいえば、過去のどこかで(過去生含む)、「自分の力」を発揮したとき、おそらくそれは「良かれ」という意図から発揮した自分の力が、
1)他人に誤解されて責められたり、
2)誤解されなくとも受け容れられなかったり、あるいは
3)「受け容れられた」としても良くない結果を招いてしまい自分も相手も深く傷ついたり、
というような体験が背景にあります。
そして、そのときに感じた衝撃をもう二度と感じたくない。と思います。
そのため「自分の力を発揮しては結局他人を傷つけてしまう」という言葉を、その衝撃(痛み)を封印するために使います。
このひとは、あのときのような痛みを二度と感じたくないと思い、徐々に、自分の力を発揮しなくなります。
自分の力を発揮しないことは、宇宙の流れとは異なります。
そのためエネルギーは「流れ」をもたずに「滞留」し「凝固」していくことになります。この場合ですと「創造性を司る喉のチャクラ」にブロックが顕れるようになるでしょう。
このようにして、エネルギーブロックに言葉が付帯してしまいます。そして自らのうちでその言葉を唱えるたびにブロックを肥大化させていきます。
「言葉」はどうしてこんなにも強い力を持ってしますのでしょう。
次回へつづく。