常識や世間など外部の力によって抑圧されることで、ありのままの自分自身が間違っていると思い込み、世間や組織、学校システムなどに合わせようとしている人々がいる。
そのように「条件づけ」されてしまった人々は、本来の自分自身を取り戻すために、ありのままの自己受容とそこからの再生を願うが、うまくいかずに、日々をごまかし生きることしか出来なくなる。
しかし、このように生きられる人は、まだ幸いなひとである。
多くのひとは、自分が条件づけられていることも、また、ありのままの自分がどのようなものなのかも知ることが出来ずに、あるいは知りたいとも思わずにいる。そして、社会的/組織的拘束を当たり前のものとして受け入れ、そのなかで生き残ることに汲々とすることになる。
このようなひとたちは、そのうち知らずに潜在意識で、他者を条件づけるためにコントロールするようになる。
そして、この他者へ向けてのコントロールは、人々の間を、組織間/世代間を連鎖していく。
いつしかそれは、得体のしれない「怪物」となる。
映画『怪物』が前提としている社会環境はこのようなものだ。
そしてそれは、わたしたちの現実感覚と育ってきた学校環境を鑑みても、深く納得できる。
この作品は、物語の力で、映像の力で、この状況からわたしたちを救い出そうとしている。
それゆえ、傑作なのだ。
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ーー ここからはネタバレを含みます ーー
映画『怪物』は3つの章が別々の視点から描かれていて、3章それぞれが、ビル火災発生から台風直撃までの同じ時間軸をもとにしている。
物語が進み章が進むにつれ、この映画が、条件づけやハラスメントから自分自身を取り戻す「再生」の物語であり、わたしたちが持つ「良心」により、自由が勝利する物語であることが分かる。
主要な登場人物
保利先生:主人公の担任教師役。2章は彼の視点から描かれる。写真はすべて『怪物』公式HPより抜粋(以下表示略)。
この映画のなかで、後に述べる「主題」全体を牽引していく存在。
誤植を見つけては出版社に手紙を送ることを趣味とし、それが「身悶えするほど楽しい」と彼女に言うシーンがある。逆に言うと、正しいことではなく、間違ったことや嘘を言わなければならないとき、それは彼にとって「身悶えするほど苦しく」、落ち着きや自分を見失う行為となる。
学校が用意した嘘の言葉に気持ちを込めることなど出来ずに、自分を失い、棒読み的になってしまう。結果、状況を一層悪くしてしまう。
また転覆病の金魚のように、一人だけ浮いた存在として周りからは認識されている。しかし、同じシーンのなかで「僕はかわいそうじゃないよ」という。それは、他者からは確かに浮いているのかもしれないが、自分としては「自己受容(自己肯定)」が出来ていることを示している。
後に主人公の湊も同じセリフをいう。湊はありのままの自分を受け入れることが出来たときにはじめて、この言葉を言うことが出来る。
物語の最初から、保利は組織や常識によって条件づけされた人ではなかった。
一方、保利の彼女は対象的に条件づけされた人であるため、保利のエレベーターでの唐突なプロポーズは、到底受け入れられなかった。世間で条件づけられているように、プロポーズは夜景の綺麗なところでなければならない。
条件づけのない保利に言わせれば、夜景はフィラメントの集合体でしかない。
そのような保利も、1章で描かれる学校組織からの抑圧により、世間受けのする嘘をつかなければならないところに強引に追い込まれる。そのときはじめて、組織や世間の圧力によって、自分を見失っていく。
校長室で母親と面談中に、保利が舐める飴は、彼女が気楽に肩の力を抜けるようにとくれたものだ。
その飴は、既に条件づけを受け入れている人々が単なる気分転換やリラックスしたいときには、効果があるのかもしれない。
しかし彼のように条件づけを受け入れてはおらず、また常に「正しさ」を求める人には、全く効果はなく、誤解を生むだけだった。
校長室での一見過剰とも思える演技は、彼のこうした背景を考えると、むしろあの演技しかないと思えるものであり、自分を見失っている様が顕れている怪演である。
正しさを追い求める保利は、学校を首になった後も、「ぼく、君になにかした?」と湊に確認せずにはいられない。そして校舎を訪れる。
「なにもしていないよね」という保利の質問に、湊が頷くと、自分の正しさが証明されたからか、心底ほっとする。
彼には世間体というものはない。「正しさ」を貫けているかどうか、だ。
それまでの嘘を翻し真実を言った湊は、その後すぐに階段から落下し「内的な死」を迎える。
だが、この出来事は一層、保利を追い込んでしまう。
彼女も仕事もなにもかも失い、犯罪者にすらなりかねず、ほとんどの「支え」を失った(靴が片足落ちてしまう)保利は、屋上から飛び降りようとし「内的な死」を経験する。
ギリギリのところで、校長と湊の「内なる真実の吐露」である「ホルンとトロンボーンの音」に救われる。
すべてを失い、自宅を整理しているときに金魚の水(浄化の象徴で背後ではルンバが掃除している)を生徒の作文にこぼす。
そこで主人公二人の作文の意味を読み解いた保利は、翌朝、台風の日、湊の家に走り豪雨(浄化)に打たれながら、外から湊に向けて叫ぶ。
「麦野、麦野、ごめんな、先生、間違っていた」
「間違ってないよ。なんにもおかしくないんだよ」
2章のクライマックスであると同時に、映画の主題が凝縮されている言葉でもある。自分の過ちを認め、正しさを貫く。湊の嘘によってすべてを失っているにもかかわらずに。
そこに、それまでの保利自身はいない。
ただ彼のなかで花開こうとしている、善意と良心がある。
本来の保利自身の「再生」の瞬間、でもある。
この言葉を、麦野湊は、直接聴いてはいない。
しかし彼に届くのだ。依里にも。
なぜって。
それが善意であり良心だから。
保利は、湊のいる2階に向けて叫んでいたように見えるが、そこに湊はいない。
その実、彼は天に向かって叫んでいたのだ。
こうして世界は変わる。善意と良心によって。
この映画は、そのことを、願っている。
意図的に曖昧なままに残されている部分を、観るものの善意と良心で、紡いでいってほしいと、そう願っている。
つづく。