オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

ツイッターからの抜粋

ここ、20日ほどの間で、ツイッターでのみ記載してきたことを
加筆修正して以下に載せます。


■悲しみや寂しさ、怖れの量は、計算出来ない。
出来ることは、自分の人生に、それらがどれほどの影響を与えてきて
いるのかを、たったひとり自分のみで、知ることだけです。


計算出来ないということは、法則がないということです。
法則がないとは、不意にやってくるものであり、予測不可能なものであり、
制御も不可能なものということです。
だから人はこうした感情の存在におびえ、抑え込もうとします。
知らない振りをしようとします。これらはますます力を持ちます。


おなじように愛も測定出来ません。
そして、不意にやってくるものです。
制御不可能なものです。
人はいつしか、この感情にもおびえはじめます。
そして愛を知らないで過ごすことを始めます。愛が欲しいといいながら。。。
人生のなかで不意にやってくるものすべてを、まずは楽しんでみましょう。



愛は風のように通り過ぎるものです。
気付かなければそれで終わりです。
いま、ここ、でしかないからです。
でも怖れは、あなたが作ったものなので、あなたが癒さない限りは
ずっと力を持ち続けます。
愛と怖れのもっとも大きな違いです。



■自分自身で創造活動を伴うビジネスを立ち上げる時、
まず最初に無価値感と向き合わざるを得ないのです。

でも収入・売上がなくなっていくと、生活が困窮し追い詰められるので、
無価値感を乗り越える勇気がすぐに持てたりもします。

で、成功体験を積むことが出来ます。
何が吉と出るか人生は分かりません。

そして、すでに、自分でビジネスを立ち上げている人の話を聴くのは、
とてもためになります。
同じ悩みを乗り越えてきていることもあって、安心出来ます。



■「せっかく自分の人生を生きようと決めたのに、今まで何か目的を
突破すると言うことに生き甲斐を感じてきたので、いつの間にか
知らないうちに違う目的をつくり、それを突破しようとしてしまう」
ということに気づけるのかどうか。

目的などは明日の分までで良い。
いま、を見つめよ。いま、君の人生を生きよ。



お金だとか人間関係だとか、安定した場所だとか、安心出来るスペースだとかが
無くなっていくことは、仕方が無いと思ってください。


あなたが身軽になることのほうが、はるかに大事だからです。


あなたは、どうして呼吸するのだろうとは思わないですよね? 
同じように、どうしてチャネリングをするのか、どうして瞑想をするのかと
か思わないことです。
僕らにとって、チャネリングや瞑想は、呼吸と同じなのです。
それをしないと生きられないのです。
そういう人がいるのです。


人によってそれは絵を描くことかもしれません。
身体に触れていくことかもしれません。
音楽を奏でることかもしれません。


たとえば、私にとってのそれは、オーラやチャクラを見ることを通して、
本当のことを言い続けることです。
相手がどう思うかは二の次です。
私はそれをしないと生きられないのです。




あなたにとって、生きるとは何か?
それは自らで自らのハートを掘り起こし、揺り動かし、目を覚まさせ、
内なる感動を引き起こしていくことではありませんか。


他者の感動など、どうでもいいのです。
あなた自身が目覚めているのかどうか。
感動しているのかどうかです。
あなた以外の基準など捨てるのです。
すべて捨てるのです。




■優れた実行力を有するには、己を空しくしなくてはならない。
事に当たって、己の感情よりも全体最適を優先させなくてはならない。
ただ起きている事実を、最優先するのだ。
経営も同じ。優れた経営者とはあるいは組織とは、
優れた実行力を持つ者の集まりに等しい。
自らの明確なビジョンを達成することに躍起になっているうちは、
まだ一流の実行力ではない。


■何が正しくて、どうして正しいかというのは、さして重要な問題ではない。

大事なのは生来知っている、自分のなかの正しいことを、
どのように養育していくのか、ということだと思います。

この養育こそ大切なのに、皆、こうだからこうするといい、とか考え過ぎで、
それが却ってエゴを強めてしまっている。



■生活というのは、合理的でも論理的でもない。
でも思考は、どこまでも合理的で論理的だ。
この両者の矛盾が、様々な葛藤を招く。


■「自分が変われば人生は変わる」という法則は、
とても安心出来ることではないだろうか。
自分が変わること以外、何も、必要としていないのだから。




■人を愛するってことは、その人の精神構造を愛し、
姿形や醸し出す雰囲気を愛することだと思います。

だから、日本を愛するっていうことは、日本人の精神構造を愛する、
日本の自然・風土を愛するってことだと思うのです。

最近のマスコミを見ていると、それが出来なくなってしまいます。
まだ、自然の方は大丈夫だけど。


原発に対して、3月頃、ノー天気な発言をしていた人達のなかで、
今は考えをあらためて放射能汚染を深刻にとらえました、って人を私は知らない。

発信情報が変化しているのだから、個人の考えが変わっていっても、
別段問題ないだろうに。

「責任」というのは状況推移の変化にいつも正直で居続けることだと思うのです。


■1号機の4000mSvは、いくらなんでも、な状況でしょう。
そして地下水から高濃度汚染水が海にダダ漏れの状況も引き続き発生中。
これは、もうレベル8でしょう。確実にチェルノブイリを超えている。
そこからすべてを考えていかないと。
これがあと最低3倍の期間は続くわけだし。



■信じたい、とか信じてみよう、は信じるではない。
多方面から一つのことを考えて考えて考え抜いたあげくに、
どうにもそれを信じるしかなくなる。

それが、信じる。「信じる=降参」 なんだと思う。 

僕にとっては「癒し」がそれに当たる。


■「自分のなかに生起する感情なりハートなり思考なるの動きを、
何一つ失うことなく押さえつけることなく、見続けよ。
それより愉しいことなどないのだから」と自分で自分を挑発してみる。


■自分に都合の良いように、出来事や理念などを解釈してしまわないようにするには、
自省するしかないよね。
でも、自分の書いたものや言ったことを疑い抜くって、結構な「勇気」がいる。
ある意味、こわい汗をかく作業だ。



■5月の日本製造業の落ち込みは、私の想像以上。
秋には、原発の影響も含め多方面に渡る変化を、余儀なくされるだろう。



■覚悟とは跳躍である。生きる次元がそこから変わる、精神の跳躍である。
ボロブドゥール寺院のように物質界を象徴する四角形の世界から、
永遠の今を象徴する円の世界への跳躍なのだ。


■『心の野球』桑田真澄著。今日ふと再読。3回目かな。
この本、書店で初めて見たとき強くオーラの光を放っていた。
発売後すぐのことだったと思う。
野球にも桑田さんにも特に思い入れはないものの即購入してみた。
正解でした。
一言でいえば、愛のある生き方の本、です。お薦めします。



■「流れ」を維持していくために、思考を使う。
でも思考は、流れを止めてしまう性質を持っている。
では、流れを止めない思考とはいかなるものか。

全てを経過点として、とらえていく思考なのか。

つまりは「今」にのみ立ち返る思考。それを支援する思考。


■無気力の多くは、過去の失敗感の蓄積からきている。
それを失敗だとみなすあなたの姿勢から、きている。


■「目」で見ているものに、絶対的に服従すること。降参すること。
自然にそうなるまでは、そのような気持ちにさせるものとの出会いが、やはり不可欠だ。


■「目」そのものは、まだ内と外の区別は発生していない。
では、目はどこにあるのか? 
「認識」という言葉は、内と外の区別が発生している。
では「認識」と「目」を結ぶものはなにか?


■学生の時に、共産圏を見たくてプラハを旅した。
列車の中で一人の老人が静かな声で話しかけてきた。
もうすぐこの国は崩壊する、と。
もし秘密警察に聴かれたら即逮捕であったろう。
事実4ヶ月後にビロード革命が起き共産党支配が終わった。

今夏、日本を旅行する海外の若者に私はなんと話しかけたいのだろう。

既存の社会勢力なり社会システムなりは、外部のものから見ると、
突然の崩壊に見えても、内部のものからすると、
それを支えている土台がゆっくりと崩れている音が聴こえている。

ただ、全員が聴こえているわけではない。

自らの耳を、目を、じっと澄ましているものだけが、その音を聴いている。




■「見る」、という行為を、徹底して純化していく。
利休や魁夷や土門拳は、そのことばかりに専念しようとしていたのだと思う。
畢竟、美が生まれ、愛が生まれるのだろう。

知ろうとして見るのではない。作為を持って見るのではない。
でも、そうなるには、対象への愛が、まずあってのことだろう。
対象への愛が先か、純化されたまなざしが先か。


愛しうる対象と出会えるのかどうか。
己のなかの愛が溢れんばかりとなる対象と、出会えるのかどうか。
でも、そのためには、対象なき愛が、既に己のなかに存在していなくてはならない。

逆に、そうした愛溢れる対象との出会いがなくなってしまっても、
己のなかの愛は枯渇していく。


やはり「見る」に当たっては、人間的な判断が不要であり、
「見る」ことの徹底した純化こそが必要なのだ。

となると、「見る」ことを純化するその姿勢が「愛」や「美」なのか。


「見る」ことを純化する機会が、こんなにも喪失した時代は、
かつてなかったのではないか。

武道や茶道などの「道」の世界は、この修練なのだと思う。

そこで執り行われる「型」は、本来、
「見る」ことを純化していくなかで生まれてくる、
自然発露的なものであって、
その「型」を通して自らのなかに
「見る」回路を醸成していくものだったのだろう。

だから、良き師匠との出会いがすべてなのだ。