ある対象について、「考える、探究する」ということは、
クッションの役割を果たしてくれる。
例えば、
その対象について全く、「考えない」としてみよう。
この場合、その人は、既に持っている自分の価値観か、
あるいは好き嫌いに基づいての判断となる。
つまり、自分が既に持っている法則に基づいての判断となる。
どこにも、拡張や変化はない。
起きようがない。
すべては自動的に起きている。
この場合、あなたは機械だ。
いつもの判断は違うのでは?
あるいはその判断になぜ、
こんなにも確信を持っているのだろうか?
そう考えて、対象物について、判断を保留し
少しの間、考えを巡らせてみる。
すると、価値観や感情的好悪を超えた、
より深い自分の感覚や考え方を知らしめてくれる。
自動的反応ではなくなる。
考えるという行為が、
その対象とあなたとの間にクッションを置いてくれる。
いつもなぜか同じパターンに陥ってしまう人は、
ひょっとすると、物事を良く考えること、
探究することが、ほとんどないのかもしれません。
対象が人間であった場合も全く同じこと。
正しくまっすぐに考え、探究する人は、
心に柔らかさが生まれるのでしょう。
白黒をすぐにつけてしまうことは、精神の弾力を奪います。
人間関係が円滑に行くか、トラブル続きになるかは、
ここに、その原因があるのだと思います。
法則・論理に従おうとすることは、いわゆる「思考」の働きです。
その法則が、外側のものであっても内側からくるものであっても。
考えるとは、自分や他のものの法則から自由になることです。
自らの足で立つ行為のため、勇気が生まれても来ます。
思考とは正反対の働きをします。