最近、マジョリティーの概念が変わったように思う。
従来はテレビや雑誌などマスメディアが牽引していたものが、
最近それらは井戸端会議化している。
仲間内でのワイガヤになっている。
なぜか。
疑問を提示されるとすぐに困ってしまうほどに、
内容が浅薄になったからだ。
別な言い方をすれば、利己的内容か私小説的な
プライベート話ばかりの疑問を受け付けない内容なのだ。
それを彼ら自身が良く知っているから、
疑問や深めることなどの自滅につながりかねないことは、決してしない。
必然お馬鹿(話)ばかりになる。
そうした本質的な知的作業は苦手で、嗅覚と計算だけで生きている人たちが、
マスメディアを先導している。
品質を伴わないマーケティング先行型で来た末路なのだろう。
深みがないので、主張が多くなってしまう。
そのような浅薄な話にほいほいと誰もがついていくほど、日本人はまだ、愚かではない。
ではなぜまかり通っているのか。
ついていってはいないのだが、誰もが
「まったく、しょうがないなぁ」
といった程度の感想で暇つぶしに付き合っている。
彼らの主張が本当にいいものや正しいものだとは、
またまして卓見が含まれているものだとは、
もはや誰も思っていない。
テレビだけでなく新聞も雑誌も同様だ。
そのレベルが以前の週刊誌化しているのだろう。
何か事件が起きたとき、その報道内容が容易に推察できてしまう。
意外性や驚きがどこにもない。
だから彼ら自身が番組中に「なんと」といって、
自分たちで驚いた振りの自作自演をしなくてはならない。
以前週刊誌などはマイノリティーであったのが、
いまや、むしろテレビよりマジョリティー化しているのかもしれない。
一方、ツイッターやネットなどによる多くの斬新で優秀な
素人の猛追で、一部視聴者の目は肥えている。
以前のオピニオンリーダ-的存在はマスメディアにいなくなっている。
加藤周一あたりで最後か。
ではマジョリティーは今どこにあるのか。
どこにもなくなったのだと思う。
別の言い方をすれば、マジョリティー足りうる品質の提供者は、
今は至る所に群雄割拠していて、それぞれが相互に探し合って
いるか、既に結び付きはじめている。
そうした人たちはマスメディア的なものから自らドロップアウト
(ドロップアップ?)出来た人たちなのだ。
多様な価値観の時代は、なにも今に始まったわけではないが、
主流の価値観がない時代は、今、始まったばかりだ。
楽しみにしていて、いいのだと思う。
ただ、楽しむためには、きっとしばらくの間は
情報発信が不可欠になるだろう。
日和見的でない、またたとえ内容がありきたりでも力ある情報発信のためには、
自分を知ること
が大切になるだろう。
ハワイ島からの海