オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

知性と思考 2

知性と思考 からの続き。


知性と思考は、どのように違うのか。

オーラのエネルギーフィールドでは、思考のある層と知性のある層では違います。
そのために、この3日間のブログでは思考と知性を使い分けました。
そして2層の働きについては「思考」という言葉を、3層の働きについては「知性」という言葉を、それぞれ恣意的に当てはめました。

一般的には知性は、
『感覚によって得られた物事を認識・判断し、思考によって新しい認識を生みだす精神の働き。知的能力(明鏡国語辞典)』とされています。
上記の思考を論理性とするならば、私の恣意的な使い分けも、あながち誤ってはいません。


とはいえ、
この数日のブログを読まれた方は、果たして、どのように思考と知性は違うのか。
あるいは、書き手はどのように使い分けているのか。
そう思われた方も多いと思います。


どちらも
AだからB で BだからC で なぜかというと、B は Dだから 
と言った具合で「考える」というアクションを進めていく論理性(あるいは証明や関連づけ)を、その基盤としています。


違いは「動機」です。
昨日記したように、思考を動かせる動機は、
  1 裁く
  2 答を求める
  3 現状維持を図る
といった、
「なんでもいいから早くこのモヤモヤ感を終わりにしたい。スッキリしたい。他のするべきことや楽しいことをしたい」
という、感情サイドからの欲求に基づきます。
この感情サイドの欲求に従って、論理性を働かせるのは、感情のエネルギーフィールドであるオーラの2層で行われています。
それが、思考。

知性は、このような感情あるいはそこから派生する思考の要求の影響から、自由です。
そのときはじめて、オーラの3層で維持されているエネルギーが活性化し、活用されていく。


それは、「探究」という形式をとります。
この「探究」を通して理解していくことは、その多くが日々の生活の実感に、寄り添うものとなるでしょう。
明鏡国語辞典に記載されているように、日々の感覚の探究から知性がはじまるからです。


もう少し具体的に。

「花が綺麗だな」
「空や海をみていると永遠を感じるな」
といったとき、感情の要請から動く思考は、
「それは花の造形のこれこれの部分と色合いのバランスと香りがそう感じさせるのだよ」
「海や空が終わりがないように見えるからだよ」
ということでしょう。


知性は、
「綺麗とは何だろう。私が綺麗だと思っているのだから、私のなかの美とはどのようなものなのだろう」
「永遠とは何だろう。私にとって永遠はなにを象徴しているのだろう。そして同じように空や海は、私にとってのなにを象徴しているのだろう」
といった感じになるかもしれません。
感情の早い終結要請がない分、探究は切りなく進んでいきます。
そして、いつしか「私」という存在に回帰してきます。
この例のように、主観的見解についての考察ならば、必ず、です。
なにも哲学的な思索が知性という訳ではありません。
論理性の使用目的の、動機や意図の違いなのです。


思考とは、感情なり欲望なりの要請から動く論理性のことで、それがゆえに、本来の論理のあり方とは別の方向に使われている論理性なのかもしれません。
だからこそ感情とタッグを組み、ありのままの事象を複雑怪奇にしてしまい、感情そのものを抑圧していくことに手を貸します。


感情が思考を要請し、その要請のもとで働くため、オーラの2層に思考と感情が結託したブロックが出来てしまう。
だから、このブロックは、感情に屈服した誤った思考方法と感情自体から出来上がっている。
と言ってもいいでしょう。
いくら論理性を持っていたとしても、動機によって感情層の2層に引っ張られてしまう。
そして2層にブロックを形成する。


知性を活性化していくには、自らが使う論理性という道具の使用目的(動機)を、いつも、きちんと見届けていくしかないように思います。
感情のために使わない。

このオーラの3層にある知性が活性化することで、ようやく、その人のハート、つまりオーラの4層が活性化していきます。



後方にうっすら見える山が 聖なるムラピ山。 一昨年噴火して、ボロブドゥール寺院がしばらく立ち入り禁止となりました。また噴火しそうです。


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