「思う」という行為は、
「感じる」という行為とは、随分異なっている。
「思う」は、能動的な行為であり、比して、
「感じる」という行為は、受動的なもの。
大多数の人は、何かを「思ってしまう」のは、
自らの意志の働きではなくて、ごくごく自然発生的なこと、と思っているのでは。
静かに、少し瞑想状態になって、
自らの「思い」を追ってみて欲しい。
ある考えなり想念を「思っていくその瞬間」を捕まえようとしてみて欲しい。
その思いが生まれる瞬間、自らの意志が働いていないだろうか。
ある「思い」を生起させているのは、自分のなかにある意思。
そうではないだろうか。
そして、その「思い」に水を蒔き、
その「思い」自体を増幅させ、持続させているのも、
同じく自分の意思ではないだろうか。
「感じる」という行為は、それに比べて、より受動的な働きだ。
だからこそ、何かを「感じている」時は、その働きのなかに、
あなたの意識ごと、埋没していくと良い。
一方、何かを「思ったり」「考えて」いるとき、
その働きのなかに埋没しても、出口は見つからない。
自らの意志、すなはち、不安感や欲などが、
その働きを生成させている場合が、多いのだから。
だから「思い」を「思い続けている」と、堂々巡りに陥りやすくなる。
自分が作り上げた、
出口のない「ああでもない」「こうでもない」という思い込みのパターンに、
入っていくから。
一度、
「自分は、こう思おうとしている」
と捉え直してみよう。
「自分のみが、こう思おうとしている」
と捉え直してみよう。
「なぜ、この想念をしたいのか」
「この想念に、なぜ、自分の時間とエネルギーを割きたいのか」
と問いかけてみて欲しい。
そして、本当に思いたいこと、思念したいことに、時間を費やしていって欲しい。
「思い」自体のなかに、あなたの自由な意思が、既に発露されている。
こうしたことすべてへの新鮮な気付きが「瞑想」である。