自分にとって、何が適切か、正しいのかということは、
本来的に、私たちは知っている。
その本来的に知っている事柄を、
顕在意識に引き上げ、自らの意思として選択していくこと。
それがすべてだ。
自分は、適切な選択を知らない。
そう思うから難しくなる。
本来的に、生まれながら知っている。
少なくとも、オーラの5層には、
それら私たちの選択に関わる必要な情報は、蓄積されている。
随時、更新されている。
私たちの眼前には、常に複数の選択肢が存在しており、
それらの選択に応じた未来が、パラレルに拡がり、存在しているのだ、
と、良く精神世界では言われてはいる。
だが、私は、この意見に与しない。
また、どのように選択しても、時間軸が異なるだけで、
つまり、ゴールに到達するのが、早いか、遅いか、という違いだけで、
最終的な到着地点は、同じである、とも良く言われている。
これは、確かに正しいのだが、誤解して受け取ってしまうと、
創造性や能動性を軽視しがちになるため、
そして、結果、エゴを強めてしまうため、
あえて、こうした見解にも、私は与しない。
現実化していくのは、意図の方だ。
選択した内容ではない。
選択した内容にのみ価値を置き、
それが全てを決定していく、と思う、物質主義的発想をするから、
インドのアガスティアの葉に書かれていることは、
真実なのか、我々に自由意思はあるのか、ということで、
抜けられない迷路に嵌っていく。
深い意味では、私たちの自由意思とは、
「意図」を持つ自由のことであり、選択の自由のことではない。
確かに多くの場合、意図と選択した内容は、繋がり合いを持っていることだろう。
だが、自由意思とは、自らの意識の在り方についての自由のことだ。
だから、私たちが、本来的に知っていることは、
物事の選択・判断に際して、自分が持つべき意図についてなのだ。
内なる声に耳を傾けるとき、
それは、選択すべき内容についてではない。
自分が、どのような存在でありたいのか、
という意図に、耳を傾けるようにするのだ。
私たちが、出来事のその瞬間に立ち会いながら知っている、
自分が、どのような存在であるべきなのかという声に、
耳を傾けるようにしてみて欲しい。
たとえ、それが世間から見れば、非常識な声であっても。
私たちは、自分が、どのようであるべきかを、本来的に知っている。
それを信じてみて欲しい。
私たちの内なる声が教えてくれるのは、
具体的に言えば、ことに当たるときに、持つべき態度や姿勢である。
たとえ同じ選択をしても、依存的・他責的にその選択をしたのか、
自立的・独立自尊的にある、優しさや毅然さ、峻厳さを持って、
その選択をしたのかによって、全く違った人生となっていく。
そういうことを内なる声は、教えようとしている。
だから大切なのは、選択そのものではない。
自分にとって、何が適切かということを、本来的に私たちは知っている。
おそらく、
そのことを日本では「良心」と呼んできた。
西洋では「ハート」と呼んできた。
オーラの5層の機能の観点から名付けるとするなら、それは
「使命」
である。