オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

「欲望とは、他者の欲望である」

これは私の言葉ではありません。
フランスの精神科医であり哲学者でもあったジャック・ラカンの言葉です。

新しいセミナーの開催を控えているときは、その準備のためのチャネリングをしていくに当たって、自分が気付かなかった複数の視点が欲しくなるので、哲学書を読むことが多くなります。

ひとつのテーマについて、深く深く思索し言語化していく習慣のある人たちを、私たちは哲学者と呼んでます。
チャネリングも未知の領域への思索の旅でもあるため、彼らの思索の道程と視点は、刺激と示唆に富んでいるからです。

「欲望とは、他者の欲望である」

深い言葉だと思いませんか。
今朝うつらうつらと本を読んでいるとき、この言葉でハッキリと目が覚めました。

私たちは、欲望は自分に内在しているものだと思い込んでいる。
そこに逆転の視点を与えてくれます。

ラカンは、「他者の欲望行為を誘因として、私たち自身の欲望は刺激されているのだ」と説いているわけですから。
確かに私たちは、他人が欲しがるものをこそ、自分のものとしたくなります。
ひょっとすると誰も欲しがらないものを得る行為については、「欲望を満たしている」という認識はないかもしれない。
誰かが欲しがるものを自分が得ようとしているときにこそ、自分の欲望を満たそうとしている。
そう感じます。
それは「思考的欲望」と言ってもいいものです。

哲学においても、良く議論されていることは、
「どこからどこまでが欲望で、どこからが欲望でないか」
というテーマです。

確かにこの定義を曖昧なままにして、いくら欲望について検討しても非生産的になりがちでしょう。
ですが、私はこれについては、以下のように考えている。

自らの欲望への意図はどこにあるのか。

上記のように(他者の介在から生まれる)思考的な欲望だとしたら、その思考のあり様を解明しておく。
感情的な欲望だとしたら、その感情のあり様を解明しておく。
肉体的な欲望だとしたら、それを理解しておく。
上記3つが、自分のなかでどのように織り合わさっているのか。

あるのは、これだけで、ここからここが欲望でここからは違うという明確なものではないと思う。
つまり正確には定義不能

意識はいつの場合もグラデーションだから。
そのグラデーションの色合いを、自分なりにつかんでいるのかどうか。
余談だが、自分のなかのこの意識のグラデーションに気付いていない人ほど、考えることに怠惰で鈍感で差別的で欲望肯定的で自分は正しいと思っている。。。ように私は常日頃感じるのです。
たとえば「現在の国難に当たっての絆」とか「痛みの分かち合い」を声高に連呼する人など。


この視点で自分を見てみると、他者や社会に、どれだけ自分が振り回されているのか。気付けば気付くほど愕然とするのではありませんか。
欲望のような自分のなかにのみそのルーツを持つように思えるものでさえ、多くが他者の視点の影響化にあることを知るだろう。

自分のなかのグラデーションに気付き、気付くがゆえになにかが自然に選択され、その選択されたものを知性で見届けていく。
これが、内なる信頼への道でしょう。

今の時点でも、これだけは言えます。

こうしたことに気付くことなく、決してこれらからは自由になれない。


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ラカンにちなんでフランスです