「問い」とは、「なぜ、こうなのか?」という問い。
この「問い」、仏教の「正見」に近いものだが、
これは、オーラの3層で保持されているエネルギー構造体と言える。
オーラの3層までチャクラを開くことで、
この「正見」の機能に基づいた「問い」が、なされる。
さて、今日ここで言いたいのは、
特に、自らに向けて発する「問い」。
この問いかけのみが、
思考の持つ分離の性質から自由でいられる、おそらく、ただひとつのあり方。
思考は、方向性を持つ。
論理は、方向性を持つ。
A→B→C→Dというように。
もはや、最初の「A」の大部分は、そぎ落とされている。
結果、こぼれ落ちるものが、どうしても出てくる。
思考は、その性質からして「排他的」にならざるを得ない。
そして思考が、行き着いた先として、
「ある捉え方」 なり
「ある感じ方」 なりの
「感情的性質を帯びた、何か」が、生成される。
それは、「寂しさ」だったり、「悲しさ」だったり、
「怒り」だったり、「不安感」だったり、「自らの正当性」だったり。
そう。
多くの感情は、思考によって強められている。
思考が、これは「怒り」だと、
ある事象と「怒り」を、等式で結ぶことをする。
すると、その事象が起きる度に、等式で結ばれた「怒り」は、強められていく。
今生だけでなく、過去生から、ずっと同じことを私たちは、繰り返している。
それら生成された、例えば「怒り」からスタートして「問い」を立てる。
なぜ、そうなのか? なぜ「怒って」いるのか?
すると、次は、順に遡っていく作業が始まる。
こういう事象があったから。
その事象の、ここに立腹する自分がいたから。
立腹したのは、この部分。
それは、自分が低く見なされたこと、だから。
低く見なされると悲しくなるから。。。。。
どこまで遡っていけるか。
判断のない、罪悪感のない、排他的でない、ところまで。
もうこれ以上、さかのぼれないところまで自分を見つめる。
最後は、感覚的になっていくことだろう。
どこまで遡っていけるか。
すべてとひとつになっているところまで。