オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

「問い」の大切さ と オーラの3層

「問い」とは、「なぜ、こうなのか?」という問い。 
この「問い」、仏教の「正見」に近いものだが、
これは、オーラの3層で保持されているエネルギー構造体と言える。 
オーラの3層までチャクラを開くことで、
この「正見」の機能に基づいた「問い」が、なされる。


さて、今日ここで言いたいのは、
特に、自らに向けて発する「問い」。


この問いかけのみが、
思考の持つ分離の性質から自由でいられる、おそらく、ただひとつのあり方。


思考は、方向性を持つ。 
論理は、方向性を持つ。 
A→B→C→Dというように。
もはや、最初の「A」の大部分は、そぎ落とされている。


結果、こぼれ落ちるものが、どうしても出てくる。


思考は、その性質からして「排他的」にならざるを得ない。


そして思考が、行き着いた先として、


 「ある捉え方」 なり
 「ある感じ方」 なりの
 「感情的性質を帯びた、何か」が、生成される。


それは、「寂しさ」だったり、「悲しさ」だったり、
「怒り」だったり、「不安感」だったり、「自らの正当性」だったり。


そう。
多くの感情は、思考によって強められている。
思考が、これは「怒り」だと、
ある事象と「怒り」を、等式で結ぶことをする。


すると、その事象が起きる度に、等式で結ばれた「怒り」は、強められていく。
今生だけでなく、過去生から、ずっと同じことを私たちは、繰り返している。


それら生成された、例えば「怒り」からスタートして「問い」を立てる。


なぜ、そうなのか? なぜ「怒って」いるのか?


すると、次は、順に遡っていく作業が始まる。


こういう事象があったから。 
その事象の、ここに立腹する自分がいたから。 
立腹したのは、この部分。 
それは、自分が低く見なされたこと、だから。 
低く見なされると悲しくなるから。。。。。


 どこまで遡っていけるか。



判断のない、罪悪感のない、排他的でない、ところまで。


もうこれ以上、さかのぼれないところまで自分を見つめる。


最後は、感覚的になっていくことだろう。


 どこまで遡っていけるか。


すべてとひとつになっているところまで。