生起している出来事は、その人の意識の反映である。想いの反映である。
それが創造主ということ。
例えば、
コップが落ちて割れるのも、
転んで怪我をするのも、
何かの試験に失敗するのも、
他人から非難叱責されるのも誉められるのも、
それを「見て」「体験している」自分の意識の反映。
「見る」ことは必然「問い」を生む。
これは何?
これを通して自分はどう感じている?
これはどうしてこうなの?
どうしてこんな目に遭うの?
この「問い」を素通りして、すぐにその答を得ようとしてしまう。
だから、人はじっくり「見ない」し
じっくり「問い」そのものとも向かい合わない。
一つの「問い」に対しての解釈は無限にある。
生起する出来事は、常に一つであるにもかかわらず。
そして、いつしか解釈に価値を置き始める。
思考はいくらでも飽くことなき解釈に追われていく。
いつの間にか、
自分に都合の良い解釈で自分を防御し、
ひたすらに重くなってしまう。身動きとれなくなってしまう。
そして、
事象そのもの
生起している、そのもの、
「今、ここ」
から遠ざかってしまう。
生起している事象そのものと、
その「問い」を発する主体者の動機そのもの
それ以外に、大切なことなどあるだろうか。
今年アメリカで見た鍾乳洞