このブログを始めたのと、ほぼ同時期にツイッターも始めました。
年初に、ネット関連の新しいことを始めようと、決意したからでもあります。
今までのセミナーやセッション、コンサルティングといった、対面でのやりとりや、
講義を主体とした情報発信とは、異なることに新鮮さを感じていました。
両方ともに、そのリアルタイム性と、
誰が読んでいるのか分からない、という不明性をも楽しんでいました。
それらに加え、自分の考えなり文章なりが、蓄積されていく楽しみも加わっていきました。
そして、311が起きました。
引き続き、原発問題も起きました。
これらから一ヶ月近くが経ち、感じることは、
大手マスメディアの既得権益に固執する姿と、それらからくる情報統制です。
原発についても、被災状況についてでも、
ツイッター上で、やりとりされている情報内容との、
あまりにもの大きな違いが、浮き上がってきています。
また、ツイッターは、とても使い勝手の良いソフトだと思います。
現在、日本での利用人口は2000万ほどとのこと。
そして、知識人の利用が多いことも、その特徴だと思います。
震災後は、私の主要メディアは、完全にツイッターとなり、
そこで受け止めた情報内容を、自分なりに修正、補完補強するために、
他のメディア(テレビ、新聞、雑誌、書籍、HP)を使う、という形式に様変わりしました。
この姿が良いのかどうかは分かりませんが、
現在のような危機のなかでは、リアルタイム情報を見ながら、
自分の意識変化と行動変化の様、そしてその変化理由を見ていく、
ということは、殊の外、大切だと思います。
そして、なにより一人一人が、サバイバルしていくためにも、
リアルタイム情報は不可欠でしょう。
今回の被災時に、携帯がつながらないなかでも、
ツイッターは、一つのメディアとして機能しました。
サイドバーにあるTwitterをクリックしていただければ、
私のツイッターアドレスにリンクされます。
もし、まだ始めていられない方は、是非に、とお薦めします。
以下は、ここ10日間ほどで、私が「つぶやいた」内容の抜粋と一部加筆修正したものです。
■新聞・ラジオ・テレビが情報統制している今、大切なことは、このツイッターを、ラジオやテレビのような、主要メディアにしていくことだと思います。ブログやホームページを持つ人は、自らツイッターを始め、告知し、お客さんや関係者を巻き込んでいきましょう。ツイッターの良い点は、自分で情報判断出来るところ。
■お金が自分を生かしている、という誤解。地球とその自然が、私たちを生かしている。つまり、私たちは生きていると同時に生かされている。自身の魂と地球によって。お金は、それらからもたらされる一つに過ぎない。
■結局、提供される餌を拒否するのか、受け取るのか、たったひとりでの自立を目指していくのか。どのようなお金(行為、取引、人)を拒否し、どのようなお金を受け取るのか。
■すべての情報統制は、大きな意味での原発利権を維持したい人達が、維持し続けたいがために行われている。
■原発問題は、地球、自然、他者生命に対して、私たちは、日頃どのように感じてきたのか。どのような態度をとってきたのか。今後とるつもりなのか。それを浮き彫りにしているのだ。私たちは、己と他との関係を、どのように切り結ぼうとしているのか。今、一人ひとりが、それを見ることを迫られている。
■放射能は、危険か安全か? それは、レベルによるというのは詭弁である。正確には、危険度が小か大かの違いだけだ。原発は、危険か、安全か? 避難が必要な事故が起きた時点で、危険以外のなにものでもない。車は、皆、危険と分かり運転している。誰も安全とは思ってない。危険を引き受ける覚悟を持って、運転している。原発は、こちらに主体性はない。民主主義のなかで、反映される仕組みがない。今、今後も危険な原発を運転するのかどうか、迫られている。
■他者を攻撃するのではなく、自分が環境変化に対応して、創造性を発揮をすれば、楽しい人生になるはず。
■「原発に対しては、冷静な議論をしたのちに・・・」と、立候補者や政治家や、一部ジャーナリストは言うが、「冷静な議論」というのは「今、起きている出来事を、一度、忘れてしまった頃に議論する」という意味なのだろう。「被災地救済方法については、冷静な議論をしたのちに」とはさすがに言わない。急務だから。原発も急務。
■自分にとって、本当に大事なものが何かを、ずっとずっと、いつまでも考え続けられるように、答えのないことを、いつでも見つめて考え続けられるように。それが、教育の基本。
■「変わる」というのは、かくも難しいことなのだね。自分が、自分でなくなってしまうと思っているのかな。その通りなのだけど。でも、それが意外に、楽しかったりもするのだけどな。そして、後から考えると、あのとき変わっておいて良かったって、ほぼ100%思えることなのだけど。
■「真実は、何か」ということに、関心を向けてはいけない。「偽り」を見抜いていくこと。「偽りを生み出す構造」を見抜いていくこと。それさえ出来れば、そのとき、そのときの真実が残る。自分を見る場合も、世界を見る場合も同じ。でも、その真実に固着しないことも大切。それは、その瞬間、今の真実でしかない。
■今後は、原発推進派と、原発廃止派と、無関心派との間で、様々な区分けと、分離が出来ていく。学生運動の時のような、激烈さはないだろうが、静かに進行していくだろう。その時、私が軽蔑するであろう人は、ある程度の知性がありながらも、無関心を装う人だと思う。その人が、精神世界の人で、訳知り顔に言う人だったら、確実に、私は軽蔑するだろう。
■確率で物事をとらえるのは、大切だと思う。ことの本質が、見えやすいという意味で。しかし、今回の地震にしろ、津波にしろ、確率的事象を大きく超えたことが起きた場合は、今後の見通しについても、通常の確率を、大きく超えて発生し出す筈。学問的根拠はない。直感である。でも、これは多くの人の、素直な直感であろう。
■「じゃぁ、どうすればいい?」 この問いには、注意が必要だ。このような問いをするのは、常に思考であり、だから、導かれる答も、ほぼ思考によるものとなる。こうして人は、ますます思考的になる。大切な問いは「じゃぁどうすればいい?」という問いを、すぐしてしまうのは、何故なのか?という、自らの在り方への問い。
■東山魁夷の絵を見て感じるひとつは、自然の美に対しての畏敬心だろう。それが「すべて」というような。遺伝子組み換えや原子力には、そうした美への感受性が、決定的に欠如している。美を失うと、人は傲慢になる。すべての美は、自然美をその拠り所としているのだから。美を失うとは、自然を失うというと同時に、自然に生かされているという感覚をも、失うことにつながってしまう。
■一人ひとりが皆、自分自身の力で、目覚めることが計画。自分自身のなにが、どうして変わったのか。外部からの情報や体験による生存適用のために、変化したに過ぎないのか。それとも、ハートに根ざした本質的な変化なのか。
■私は、コンサルティングをしていて「なし崩し的にことを運ぶ」というのは、日本人が持つ組織運営の叡智なのだと思う。敗者と勝者を作らない、という意味で。だが、危機の時には決して、決して、なし崩し的にことを進めてはならない。傷口が、拡がる一方となる。
■今、原発問題についての議論を見ていると、コメンテーターの多くが、生命に関わる事柄について、経済原則的成功概念を当てはめようとしている。そのことに恥ていないことに驚く。生命について考察するときは、経済原則を脇に置いて考えることが、倫理であり、教養だろうに。
■ラスカル母さん、aさん、シンヤさん、jさん、mahinaさん、ラスカルさん、かしまださん、kenmennanaさん、ハマさん、マハさん、まみたさん、haruruさん、yukiさん、TOMO1701さん、咲さん、shihomiさん、shinsekaiさん、Dolphinさん、ないぬいさん。
40万超の義捐金ご協力、心より感謝です。http://justgiving.jp/c/5602
■「こだわり」と言う言葉は、「大して意味のないことに執着する」という本来、悪い意味の言葉だった。それが、最近は、「何かに、こだわりを持っている」というような、いい意味で使われて始めた。本来の日本人は、執着や変わらないことを良くないものとしていた。それが、目標達成の正当化の中で良いことになった。
■豊かさの維持や、自然の流れから離れることで、執着することに正当性を見出そうとしたことが、「こだわり」という言葉の意味の変質を招いたのだと思う。今、マスコミ報道を見ていて感じるのは、皆「変わりたくないのだな」と。今の生活スタイルの維持を、ずっとしていたいのだね。まさに「こだわり」。
■外側にある光を探すのではなく、自分のなかにある光を頼りに生きていく。そういう時代が、否応なく始まっている。