原発反対派の人たちは、はっきりと、原発が「嫌いだ」と言えよう。
一方、推進派は、原発の必要性の大義を掲げこそすれ、
自分は原発が「好きだ」とは、決して言わないだろう。
それを言ってしまっては、大義に反すると彼ら自身が分かっているから。
なぜ分かるのか。
正しい大義とは本来、そのベースに「人の良心」があるものだから。
「人の良心」を拠り所としていない大義は、嘘の大義だから。
きっと、推進派の人達は、自分の掲げている大義が嘘だと、
つまり、それは大義でも正義でもなんでもない、
ただの「でっちあげ」あるいは「希望的観測」だと、
うすうす気付いているのではないか。
でも本気で気付いてしまうと、自分が変わらなくてはならないし、
過去の自分の言動までをも否定しなくてはならなくなる。
謝罪も必要となるかもしれない。
それはそれは、大きな勇気が必要だ。
そして、その後大きな罪悪感と向かい合うことになる。
それはイヤだ。
自分が「でっちあげ」たものを信じる方が、たやすい。
彼らのエゴ的思考は、そう、彼らにそうささやくに違いない。
自分のバランスを保つために、そのでっち上げたもの、
例えばそれは「今はまだ原発を推進することこそ、当面は世のためになるのだ」
という簡便な言説を信じる。
こうした自分自身へのマインドコントロールをやってみると、
もともと仲間もたくさんいることだし、案外、たやすいものだ。
そして、なにより勇気を必要としない。
大義は、自らの良心をごまかす有効な道具となる。
そう学んでいく。次々に適当な「希望的観測の大義」をでっちあげていく。
大義の持つ曖昧さゆえ、誰も的確にそれを批判することが出来ない。
つまり、自分を批判的に見ることの必要がない。
あとは、時折顔を出す自分の「良心」を黙らせれば、すべてOKとなる。
全く別の「何かいいこと」、
例えば募金活動やボランティア活動、親切心の発露、
あるいは何かの宗教の信仰などを熱心にするかもしれない。
逆にただひたすらに、仕事や金儲け成功すること、多くの友人を持つことなどに
打ち込むかもしれない。
幸いなことに、今はこうしたことを否定的に見る人が、
以前に比べるとずっと少なくなっている。
だが、「良心」とともに居ないために、時折湧いてくる
「さびしさ」や「無価値感」だけは、なかなかごまかすことが出来ない。
モノや人(友人、知人、尊敬してくれる人)が足りないのだ。
そう判断しより一層の成功を求める。
「さびしさ」や「無価値感」を抱えたまま、課題は、来生に持ち越される。