今年の夏に、ツイッターでつぶやいた内容を一部修正しました。
■ ハートは「分かる」ということを、さして大切にしていない。思考にとっては
とてもとても大切なことだけど。むしろハートは「分からないままにしておく」
ことを大切にしている。
■ 思考や知性は、日々の生活のためと、自分自身と正しく寄り添うために出来る
だけ使う。そうでないと、結局は、「裁き」となり「罪悪感」に至ってしまう。
■ 自分で人生を組み立てているように見えても、与えられているもののなかから
の選択をしていることが大部分なので、本当に自分のするべきことをしている
のか、ふと、疑問になる。特にテレビなんかを見ていると。
■ 資本主義は、成長を前提としている。だから成熟期以降は、搾取のシステム
となる。最初は外部、次に内部から、そしてついには地球乱獲へ。衰退を前提
とする経済システムはどのようなものになるのかしら。
■ 文章を書くのも、セミナーと一緒で、どこに着地するのか、2行以上先は見えて
いない。セミナー中も20秒以上先は見えていない。セッションは2分以上先は
見えていない。コンサルティングは2時間先まで見えている(笑)
■ せっかくこんなにいい従業員なのに、全く活かしていない経営者と広報だな。
と、日本という国の政治とマスコミを見ていると痛感する。
■ 日本に宗教紛争がないというのは、すごくいいことだ。ある意味、信仰心との
付き合い方を自然に体得しているのかな。それはざっくばらんに言えば、信仰
心を持っているからと言って、別に偉くも賢くも正しくもないということを体
得しているということ。その人の自由に過ぎないと理解している。
■ みなとみらい花火大会終了。年々規模が小さくなっているように感じるなぁ。
景気のせいかなぁ。
■ akua の丸窓からも花火が見える! 凄い音! もう仕事終わりにして見に行く。
■ 自由意思はすべてに優先されている。どうしたってこの形式を、とらざるを得
ない。そしてこうである限り、人生の全責任は自分にあり、自分が起点となる。
そうならざるを得ない。この宇宙は、世界は、必然として見えてくる。
認識→意思→人生→世界→宇宙→認識とめぐりめぐってまた出発点に戻ってくる。
■ 意外に思われる人も多いのだが、今まで一度も投資や株関連をしたことがない。
ギャンブル的なことは人生だけで十分だしそちらの方が楽しいと思っているのと、
まだ身体も頭も動くうちに、そうしたことにエネルギーを注ぐのは、何かが違う
と思うのです。
■ 想像力を使うとは、既存の答えやパターンによりかからないということ。それ
が幻想になってしまうかどうかは、自分で分かる。自分にはこれしかない。この
答えしかない。そう思えるところまで想像力と知性を使う。そうすれば、そこに
幻想の入る余地はない。
想像力とは洞察力のことでもあり、でも洞察力だけだとそこに論理のジャンプ
がないから、やはり想像力なのです。
■ 知識+洞察力+直感+良心+創造性を使って、ものごとを見ていくことが想像力。
これをもって森羅万象を見ていくと、すべてのことが面白く興味深く思える。
何をしていても何を考えていても楽しいのです。本当だよ。小さな子どもたち
を見てご覧。
■ 構えて行っているコーチングは、設定目的が誤っていた場合、間違った場所に
早く到達してしまうだけだ。そしてしばらくして虚しさがやってくることだろう。
本来の指導は、不定期でつまりある意味、常時行われるもので、目的ではなくや
ろうとしていることを支援するものである筈。
■ 今という時代は誰もが、過去生すべてのレビューと未来への橋渡しとするために
生まれてきている。
■ 感じている罪悪感なり怖れは、一生懸命自分を観ても、どうにもならないとした
ら、それは過去生で脳やハートの手術なり強いマインドコントロールなりを受け
た可能性はある。こうなると、「もうやめる」と決まるしかない。あるいはアファ
メーションなどで逆マインドコントロールを自分に対してするか。 ヒーリング
でもある程度は、なくなっていく。でも、ある程度まで。最後はやはり創造主と
しての機能を活用した「決意」と「養育」がどうしても必要になる。
■ 感動の最中は分離がない。だから自分がない。結局、人は自分のない状態に還ろ
うとしている。自分を持って生まれてきて、自分のない状態に還ろうとする。
通常、人生は自分があるときがほとんどだから、その素晴らしさが際立つ。とき
どき垣間見せてくれるからいいのだろう。
■ ジョルジュドンのボレロは、ドンの髪型も相まって、百獣の王ライオンがその
自らの威厳を見せつけ周りのものたちに讃えられ、そして滅びていくまでを描
いているように思えます。
生命の栄枯盛衰というか。振付け師ベジャールは全然違うことを言っているの
ですけどね。
■ 他の有名ダンサー(シルヴィギエム等)の踊るボレロも何度か行きました。だ
が彼は別格でした。ジョルジュドンの他の公演も何度か見に行きました。いい
のですがボレロは別格でした。ボレロの振り付けをしたベジャールの公演も何
度か見に行きました。でも、ジョルジュドンのボレロが「別格」なのでした。
■ 今年、身体的にダメになったもの。クーラー。チェーン店の牛丼。コンビニ食。
たばこの煙。酔っ払い。 クーラーがダメになってきたのは、つらいな。ない
のは暑くて頭が働かないし、あると身体が反抗するし。
■ 明治維新以降、「学び」の定義が変わってしまったのだろう。生きていく知恵
ではなく、情報(法則)とその応用になってしまった。法則とその応用は高校
初等レベルまででいいのではないかな。
■ 自らを幸せに平安にしていくもの、自らが生きていく道筋を示していくもの、
それらを考えて探究して学ぶ。それは誰でも一生続けなくてはならないこと。
■ 海外から戻る飛行機のなかでは、もう当面、外国はいいかなって思うのですが、
帰国後、数日経つと、また行きたくなってしまう。きっと疲れがとれて元気に
なるからかな。思いのほか、肉体の状況は精神に影響を与えているものなのだ
と思う。
■ 教師が答えを知っていることを教えていくことも意味はあるだろうが、教育の
基本はソクラテスがいうところの「対話」にある。「問い」をともに出し合っ
ていくことが肝要。
前者のみの教育の欺瞞に、今の子どもたちは気付いている。いや大人たちも。
だから教師という仕事を見くびってしまっている。
■ 日本人の四季を愛でる心がいい。自然もそれに呼応しようとしているように感
じる。そういえば、日本の夏の自然の香りを、海外ではあまり感じたことがな
いな。
■ 人生の秘密(宝物)は、自らが発見しようとしても、なかなか見いだせていく
ものではない。 人生自身に語ってもらって初めてあきらかにされてくる。
つまり人生に対しての信頼が必要となる。 それは仕事も同じ。 自らの仕事
の困難さと深淵さそしてその報われ感があってあきらかにされてくるもの。
■ 顕在意識でなされる覚悟が、潜在意識を自由にしていく。潜在意識の宝物を
引き出してくる。
■ 論理のジャンプ(飛躍)を許すのはエゴ。それを見破るのは知性。あるいは
直感。
■ sedona この時期暑いのですが、観光客多いです。夏休みシーズンだからでしょ
うか。日本人も多くを見かけています。この暑さ、意外にセドナにあっている
ように感じています。
そして日本の昔の懐かしい暑さを思い出します。鳥のさえずりや昆虫やトカゲ
と遮り感のない太陽が沢山だからでしょうか。
■ ツイッターのいろんな意見、特に有名人にからむ人の意見などを読んでいると、
どんな意見であっても一見はもっともらしく言えてしまうのだな、と痛感する。
しっかりものを考えていない人は、どんな考え方にでも便乗出来てしまう。
勘の鈍い人も同様。繊細でいながらにして、しっかりと物事を考えよう。
■ 人は、難しいテーマの方が、面白いということを、皆忘れていやしませんか。
人は皆、成長したがっているのだから。成長意欲は人の本能のようなものなの
だから。学校の授業や会社の研修での深みのない易しさか、逆に全くのわから
なさ。これで皆つまらなくなる。
■ たとえ、適切な答えが見つけられなくても、自分という人間はいつでも、たった
一人で問題を考えていく、そしてその問題から決して逃げないで見つめ続けてい
く。
そのように確信出来たとしたら、それこそが普遍的な意味での「自信」ではない
だろうか。
■ 経営コンサルティングの仕事やカウンセリングをしていて思うのだが、ほとんど
の人は10分ほども考えていない。「どうしよう」「どうしたらいい」とは思って
いる。でも考えていない。考えるとは、本当の本当の問題はなにか、を探究する
こと。ここで誤るとすべてを誤る。
そして安易な解答に飛びつく。
■ 考え続ける。この「続ける」が大事。考えるということの「切りのなさ」を知
ることが大事。どこまでもどこまでも、考えというものは膨らませていけるし、
探究し続けられるということを知ること。いったん答えが出てもそれは仮説に
過ぎない。仮説は常に現実から挑戦を受け続けていることを知ること。
■ 音楽は、人の持つ深いかなしみ、愛と直接的につながるようなかなしみを、最
も豊かなに表現してくれる手段だと思う今日この頃です。
■ 「顕在意識で知っているようなことには、ほとんど触れることはなく、私がも
う少し理解を深め頑張れば分かりそうなこと、手が届きそうなことばかりを、
ひたすら90分伝え続けられた最初の個人セッションだった。」 という言葉は、
僕にとってのひとつの理想形。
■ 『朽ちていった命 ー被曝治療83日間の記録ー』読了。 主題は1999年東海
村で起きた臨界事故で死亡した、大内さんと向き合う家族と医療スタッフの83
日間の経緯。現在、慢性化しつつある被曝の実態についつい鈍感になってしま
いそうに思い、気持ちを一新するためにも手に取った本。
看護士たちは、大内氏のわずかな眉間の動きだけから、彼の言いたいことを
推察しようとする。
話すことなど出来ないから。 大内氏がまだ話せるときに奥さんに伝えていた、
「愛している」という言葉を思い出さないことには治癒に当たれない医師。
それほどまでに彼の身体が、朽ちているのだ。
頼みの綱は近親者からの輸血であり移植。 それが一時は効を奏す。 そして
医療スタッフも希望を垣間見る。 治療も50日目を超えた当たりから「これは
本人のためになっているのだろうか」という迷いを、主治医である前川氏まで
が持ち始める。単なる延命措置で苦しませているのではないかと。
何らかの目的を持って読む本では、ありませんでした。 臨界事故のあまりの
あっけなさ放射能のあまりのあっけなさと、そのあっけなさが原因とはまるで
思えない、大内氏の生命が、次々と朽ち果てていく様。
自らの生命の設計図であるDNAを瞬時に破壊された大内氏は、自分で自分を守る
ことが出来ないでいた。
主治医の前川氏の言葉が印象的だ。「被曝治療は、近い将来、勝つ見込みのあ
る闘いだとは思えなくなった」。特に治癒に関わる方にはお薦めしたい一冊で
す。 命と向き合えます。
■ 起きていることすべてが、癒しに通じている。とは、たとえつらく悲惨なこと
であってもそれ自体がすでに「救い」となっている。誰のどのような「救い」
なのかは、そのときには分からないかもしれない。
■ 曼荼羅は、出来上がるとなぜすぐに壊すのか。 大切なのは結果ではなく、
創造のプロセスそのものにあるからだ。結果がなにかをもたらすのではない。
瞬間瞬間の創造の最中にすでに、なにかがもたらされている。 忘れがちだ
けど。
■ 笑いっていうのは一回性のものだと思う。 偶然の作用が大きいものだしね。
だから面白いのだろうな。
■ 事実、目の前で、今、展開している恐怖(生命の緊急危機等)以外は、すべ
て幻想です。でもその幻想に、ついつい力を与えてしまうのだよね。でも幻
想。
■ 自分を捨てるというのは、自分のこだわりを捨てるということ。捨てようとし
ても、捨てようとしても、そして実際にどんどんと捨てていっても、まだ残っ
ているもの。きっとそこが自分が還るべきところなのだろう。 私たちが還る
べきところは、結局、自分以外にはないのだか
ら。
自分以外のところにひとたび還ってしまったら、それこそ、もう帰ってこれな
いのだから。
■ ボロブドゥール寺院って、宇宙船みたいだ。
■ どんなに解釈を積み重ねても「直覚」には至らない。直覚から解釈に至るこ
とは出来る。一面的にならざるを得ないが。人間というものは部分の総和で
はないからだ。
■ なにかを癒したい、いや、通常の言葉での意味ではなく、私の言葉において
の「癒したい」という気持ちだけは幼少時から持っていたと思う。そのこと
に確信はある。それを突き詰め続けた結果が、いまの全活動になっている。
たぶん通常以上に、自らの直覚力を信じていたのだと思う。今でも強く信じ
ている。
だから、何をしていても、私の言葉の意味においての「癒す」ということに
つながっていく。そう思っていなくても、そこにつながってしまう。つなが
らないときは、私がなんらかの感情的執着を持っているとき。でも、そのと
きは人生が教えてくれる。その意味で、人生を深く信頼している。
■ 何か、ことに直面したとき、私たちの深い部分は、すでにその事案に対して
「直覚」している部分がある。確かにある。これは人間の全的能力の発露さ
れたものだと思う。ただ、その状態のままでは非論理的ではある。だから、
あとから自らの悟性での解釈は必要となる。それがたとえ一面的であったと
しても。
■ 働けど働けど なお我が暮らし楽にならざり じっと手相を見る。
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