オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

人生とはあなたの夢を叶えるためにあります

「人生とは、あなたの夢を叶えるためにあります」


このメッセージは嘘だよ。しかも悪質な。
私はそう思います。

でも、この言葉を聴いたとき、その内容に「疑い」を持つことは難しい。

なぜなら、こうした言葉を肯定するセンチメンタリズムは、本にも唄にも道徳倫理にもスピリチュアルにも学校にも、様々なところに溢れている。
だからこの言葉を耳にしたとき、そうだ、このことを忘れてないようにしなきゃとは思っても、疑うことはしない。
世間であまりにも頻繁に耳にする、そして誰も傷つけない言葉を疑うことは難しい。

もうひとつ。
この言葉を信じたいという気持ちが働く。
「やりたいこと」がなかなかうまくいかなくて、飛び抜けた能力を持っている人以外の大部分の人がつらく我慢を強いられる。
そんな人生や世界は間違っている、というところに思い至ってしまう。

だから、私の人生や多くの人生をハッピーにしていくには、この言葉こそが真実でなくてはならない。
それ以外はないはずだ。
そしてある意味、藁をもすがるような気持ちで、この言葉に縋り付く。
疑うまでには、至らない。


しかも、疑うと言っても、多くの人がこの言葉に希望を見出しスピリチュアルな道などに励んでいるのに、そもそもなんのために疑い、否定するのかが分からない。

下手にそんなことをしては、人の希望を奪取しようとしている悪人のように、自分のことを感じてしまう。
人からもそう言われるかもしれない。

この言葉を否定することは、希望や夢というものも否定することにつながりかねないという危険性すらある。


でも、人生には、希望も夢も、上記のようなセンチメンタルな言葉もほとんど要らない。


5,6年ほど前から、東大でまで「希望学」などと銘打って、人の意識の動きの一部である「希望」を学問対象として取り上げはじめた。
バカではないかと思っていた。
一部学者が世間的センチメンタリズムに取り入ろうとしている部分、そして、それこそ希望学に希望を託そうとしている部分、託させようとしている部分が透けて見える。

確かに、多くの人は希望が持てないから、創造的に生きるのを諦めてしまう。
これは問題である。
だが、不安定とは本来そういうものだろう。
だから、不安定であることが希望そのものであるとパラダイム変換をしない限り、希望も夢も上記の言葉も、安定的推移が不可欠になる。
その安定的推移がなくなり、様々なものが崩壊しているからこそ、希望も夢もない時代と人々は嘆き、結果、希望や夢を叶えるセミナーや自己啓発ひいてはスピリチュアルが、一時的に活性化したに過ぎない。

サバイバルの手段としてスピリチュアルも活用され、その延長線上に、「人生とは、あなたの夢を叶えるためにあります」という言葉もある。
こうしたことがもてはやされてもう10年は経つので、こうした言葉の嘘になんとなく気付きはじめ、人生を軌道修正しようとしている人も最近増えているように思う。


なぜ、この言葉は嘘か。

あなたの夢は「ありのまま」ではない。
あなたの夢は「いま、ここ」でもない。
(夢を抱いているあなたという存在は「ありのまま」で「いまここ」ではある)


人生は常に、「ありのまま」で「いま、ここ」で生起している。
そのように設計されている。

人生とは、過去と未来のみ、という人はいないだろう。
いつも「いま、ここ」の連続体だ。
むしろ人生には過去も未来もない。
過去も未来も、私たちの意識のなかのみでしかない。
加えて、私の人生は、誰かのヒロイックな人生ではなく、それが惨めであろうとほどほどであろうと、どこまでも「ありのまま」だ。

「いま、ここ」で「ありのまま」としてしかあり得ない人生が、夢を叶えるという「未来」的な「幻想」と両立しうるだろうか。


「人生とは、あなたの夢を叶えるためにあります」が正しいならば、常に未来を見据えて生きることになり、「いま、ここ」と「ありのまま」がないがしろにされる。
幻想的な虚構の人生となってしまう。


もうひとつ。
あなたの「夢」の起源だ。

その「夢」はどこからきたものなのか。

ハートを起源とするものか。
感情的な要求を起源とするものか。
何らかの価値観の達成のためのものか。
肉体的な要求を達成するためのものなのか。

これはなかなか分からない。
だから分かるために夢に向かって少し歩み出す必要はあるだろう。
そして夢の起源を解明していく。
かといって、決して夢に執着をしない。

人はなりたいものになるのではなく、ならざるを得ないものになるのだと思います。


夢を持つに至った動機の解明がなされずに、夢に邁進するとどうなるか。
ハートを起源とするものは幸いだが、それ以外の場合は、夢は欲望と同義である。
肉体的か感情的か観念的な欲望を、助長するための人生となっていくであろう。
私が観る限り、上記の言葉を信じる人は、そのような人が圧倒的多数を占める。
だから人生には夢も希望も、その殆どは要らない。

人は、夢に向かって疑わずに邁進する。
欲だから、欲的な行動形態(疑いなく邁進する行動形態)になるのだ。

社会的センチメンタリズムもこれに応援をする。
社会も混乱し個人も混乱する。

「ありのまま」「いま、ここ」から離れ自らの欲望をある正当性を持って助長していくのだから、当然である。

だから悪質な嘘なのだ。


ではおまえは、「夢も希望も持つな、人生とは悲惨なものだから諦めろとでも言うのか」と責められそうだ。
そう、社会的な正当性をバックにして人を責め立てようとするどこかの国のマスコミみたいに。



この文章で言っていることは、

  「ありのまま」と「いまここ」から離れないように気を付けよ。
  「欲望を自ら助長するな」

ということ。


でも
ほとんどのセンチメンタリズムやそれを背景にしたスピリチュアリズムと、社会的に正当性を持っている言説の多くは、

   それをむやみに信じると「ありのまま」から離れて かつ
   欲望を助長することになるから気を付けてね、

ということを、論じてみたの。


ものごと、100−0で考えてはいけませぬ。

特に意識の動きに関わることはね。



(ひとこと)
   人生とは、あなたの夢を叶えるためにあるわけではない。

これが正解。
ほら、正解は受けが悪いでしょ。
だからみんなに受けるメッセージは、まず疑うことをお勧めします。



クリックありがとうございます。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ オーラへ
にほんブログ村