前日の続きです。
神父さんに、子どものように手をひかれ、連れられて、カーテンの奥の、そして、そのまた奥の部屋へと至りました。
その部屋では、既に、様々な男性5人が水着姿で、目もうつろに向かい合わせで、用意されているベンチに座っています。
私は6人目。
小さな子供もいました。 皆の目がうつろなのが、少々気になる。 いや、それ以外にも、沢山気になることはある。
みんな、どれだけの時間、そこでそうしているの?
これから何が起きるの?
みんなは、分かっててそこにいるの?
どうして、みんな手ぶらなの?
一瞬の刹那に、次々と疑問が湧きます。
誤解無きように申し上げると、見るからに優しげな老齢の神父さん達です。
手取り、足取り、私の面倒を見ることが、神に仕える者としての勤め、と心から思い、親切心から、私にピッタリついて、服を脱がせようとしているのです。 多分。
この人たちの優しさに応えるためにも、ここで帰ってはならないだろうという気持ちと、いやいや、状況は、おおよそ分かったのだから、一旦ここでひき上げて、水着やタオル、そして、なによりも気持ちを整えてから出直してくるべきだ、という思いが、私のなかで闘っています。
しかし、迷っていたのは、ほんの一秒くらいの間だったでしょうか。
一人の神父さんが、私が着ているセーターを脱ぎやすいようにとの親切心から、私の眼鏡を外してくれました。 普通、眼鏡は自分で取るものでしょう。 とってもらうものではないでしょう。 それは親切過ぎるでしょう。
正常な視界を奪われた私は、その時、正常な判断も奪われました。
そこから先は、「脱ぎましょう、脱ぎましょう」という両手のひらを上にして下から上に持ち上げる神父のやさしいジェスチャーに促され、何枚の服を脱いでいったことでしょう。
気付いたときには、気温3度のなか、暖房設備もない部屋で、裸同然の姿で、身体を隠すタオルも持たずに、このあとに何が待っているのかも分からないまま、ただただ待つ身となっていました。
何があるのか、事の次第が分かれば、人は大丈夫なものです。 たとえ裸同然であっても。 でも、まだ、何がなにやら分かりません。 視力さえも奪われています。 しかも、私は水着を着ていない。
次々と、呼ばれて人がいなくなっていきます。
寒さと無防備さから、私の目もきっと、うつろになっていたことでしょう。
15分ほどしてからでしょうか。 それとも30分ほどでしてからしょうか。 時間は分かりません。
私が呼ばれました。 その日の最後の番です。 もう部屋には、誰も残っていません。 しかも、私は水着を着ていない。
浴室と待合室の間にある、最後のカーテンを開け、なかに入っていくと、頑強な身体をした神父と思われる二人の姿と、通常の自宅のお風呂の3倍程度の、大きな石作りの浴槽が目に入ります。 かなり立派なお風呂です。
頑強な二人の神父から、最後のものを脱ぐようにとのジャスチャーがなされます。 脱ぎ終わるやいなや、二人がかりで、大きなタオルが私の腰に巻き付けられました。 一瞬の素早さです。
そして、浴槽の前に立ち、足先だけ、ルルドの水に浸かります。
神父の一人が、手のひらほどの小さなマリア像を、私の目の前に、差し出してきました。
洞窟の上で微笑んでいるあのマリア像です。 おそらく。
私には、その意味が分かりません。
記念に頂けるのかなぁと思って、私が手を伸ばすと、神父にとっては、それが予想外の反応だったのか、すっとマリア像を持っていた手をひきました。 なんだ、触れてはいけないのか。
神父と短い時間、目と目が合います。 お互い、無言です。
そして、神父は再度、また私の元に小さなマリア像を差し出す。
。。。。。
私は、ようやくマリアに向かって祈れということか、と合点がいきました。
でも、どうやって祈ればいいのかが分かりません。
とりあえず、両手を合掌しマリア像に向かって、深くお辞儀をします。 精一杯の心を込めました。
なにしろ眼鏡はないし、寒いし、自分の置かれている状況は良く飲み込めないはで、判断能力は、極限まで低下しています。
そして、ちらっと神父を見る。 無言です。
これが、日本式の祈りだということにすら気付かずに、3回ほど、頭を深くさげてからでしょうか。今、目の前にしているのは、神社仏閣ではなく、マリア様だということに気付きました。
二人の神父は、静かに私を見守っています。 きっと、彼らも身動きが、とれなかったのでしょう。
キリスト教的に祈るとは、どういうことをすればいいのか? きっと、胸で十字を切って、両手を合わせ「天にまします我らの父よ・・・・・」と祈ればいいのでしょうが、そのようなことすら、思いも付きませんでした。
結局、私がしたことは、マリア像をみながら「マリア、マリア、ああマリア」と言うことでした。まるで「ロミオ、ロミオ、おおロミオ」のようにです。 私は、再び神父を見ます。 目が合います。
今、思い出すと、とても変な光景です。 ですが、頑強な神父達は、その瞬間、私との接点を見出したようでした。 私が、マリア、マリアと、幾度となく言い続けていると、そのうち一緒になって、彼らも、「マリマリア」と、謳い始めてくれました。
それを聞きながら、私は自分のしていることは間違っていない、これでいいのだ、とようやく安堵を感じ始めていました。
安堵感を得た私は、寒さを感じる一方で、神聖さも感じ始めていました。 声の力か、マリアの力か、ルルドの力か。
小さなマリア像への祈りの後、浴槽の最も深い部分まで、神父に手をとられながら歩いていきます。 腰の下20センチくらいまで、奇跡の水が来ています。 最も深い部分に立つと、また目の前にマリア像があります。
今度のマリア像は、高さ50cm程です。
二人の神父は、私が祈るのを待っています。 目が合います。 両者、合点です。
私は、再び「マリア、マリア・・・」と言い続け、彼らも、私にしたがい祈ります。 マリアという言葉の3重奏が、石で出来た浴室に響きます。
美しい。 石にこだまする声の反響音も。 倍音も出ているではないか。
神聖さが満ちてきました。
もうこの建物には、私たちしかいません。私も、彼らも、そしてマリアも満足気です。
いえ、断言しましょう。 三者(私と神父とマリア)ともに、とても満足でした。 トレビアンです。 三位一体です。
それまでの過程や、祈りの手法は、ケセラセラです。
しばし、神聖なものに包まれます。
私が、祈りの言葉を止め、しばしのあいだ神聖さに浸っていると、おもむろに、二人の神父の力により、後ろに倒されていきました。
背中から着水していく感じです。
3重奏の祈りのあと、私たちには、言葉を超えた信頼感が生まれています。
私は身体の力を抜き、神父の腕に身も心も委ねました。 顔以外の全てが、ルルドの水に浸かっています。
外気温3度のなかで、おそらく氷る寸前の水に、首まで、頭も半分くらいは浸かっています。
ですが、寒さよりも、身体全ての細胞で感じていた心地良さや透き通っていく感覚と、それらからくる心や意識の暖かさです。 本当に、決して寒くはなかった。
細胞は、歓んでいます。 この希有な体験を。
安堵です。 絶対的な、安心感です。
10秒ほど経ってからでしょうか。
ぐっと身体が、持ち上げられます。
神父が、石風呂を出るところに導いてくれます。
Merci Beaucoup !
身体は、タオルで拭かずに、ルルドの奇跡の水に濡れたまま、自然乾燥していくのを数分待ちます。 細胞に、ゆっくりと浸透していくのを待つ感じです。
いつかタイミングが合えば、ルルドツアーも開催したいと思っています。
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写真はルルドの教会のなか。実はこの写真を撮って以降教会を出るまでの間、カメラが動きませんでした。私以外にも別の人も。教会を出たら直りました。