古代、ネイティブのほとんどが、文化や生活のなかに自然崇拝としての「祈り」がありました。
セドナやウルルをはじめハワイ、伊勢神宮や青森の縄文遺跡などで、その地にたつと感じるのは、彼らの「祈り」のエネルギーが「今」に生きているということです。
真摯な「祈り」や「瞑想」には永続的な力があります。
それが自然を崇拝するために向けられる祈りであれば、なおのことだと思います。
時空を超えている対象に対しての、時空を超える行為が「祈り」だからです。
大地が、あるいは岩や石や植物の魂たちが、敬虔な「祈り」を吸収・記憶し、その良質なエネルギーを「今」に伝えます。
岩やクリスタルなども「祈り」を記憶しエネルギーを「記録・蓄積」している。
もしクリスタルを用いて祈るならば、そのエネルギーは記録されていきます。
セドナやウルルなどのネイティブにとっての聖地に足を踏み入れる前に、その地に蓄えられている良質なエネルギーへの尊重と畏敬の念をこめた「挨拶」が大切になるのは、こうした理由からでもあります。
自然なるもの、魂なるものに対して「祈る」。
それは「瞑想」といって良いものです。
言葉は自らを真摯な深みに導くものとして用います。
やまとことばや古代語の多くは、祈りの言葉がその始原でもあったからです。
自然への祈りは、日本が世界に対して発信するべき信仰の在り方と思います。
そして、世界の聖地や自然に「記憶」されている良質なエネルギーを開放していく。
私たちの想像が及ばないほどの莫大な「神聖な力」が、開放されるのを待っています。
複数の人々で行う、自然や宇宙への真摯な「祈り」はひとりで行うよりも幾何級数的な力を発揮します。
ですが、自分ひとりの力を軽んじないでください。
それは、宇宙にたいしても私たちの魂にたいしても何かしらの恩寵をもたらすはずです。