オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

スピリチュアル界の現状分析 2

昨日の続き。


現在スピリチュアル界で広められている考え方は以下の3つに集約されてくるだろう。


A ポジティブシンキングなり「愛」や「感謝」の気持ちですべてを見なさい。
B あなたはそのままで既に完璧なのであなた自身の「あるがまま」でいなさい。
C すべては愛であり、またすべては完璧なので信頼と感謝が大切。


しかし、このABCはそれぞれに以下のような矛盾を抱える。


1 AのポジティブシンキングはB「ありのまま」でいることと矛盾する。
そもそも既に完璧な私なのだから、無理にAのポジティブシンキングをする必要がない。


「ありのままの」自分の気持ちがある人への怒りに打ち震えていたとしても、
その人に「愛」と「感謝」を送ろうという気持ちに切り替えていかなければならない。


よって、A派は「ありのまま」派であるB派のことには触れない。
C派の考え方は採用する。
『すべてが「愛」だというのは真実で、そのことをあなたは忘れてしまっただけだから、
 もう一度「愛」や「感謝」の気持ちを取り戻しましょう』


本当だろうか。。。


    「本当だ」


えっ。と思わないで欲しい。

本当なのだから。



問題は言葉の定義にある。

スピリチュアル界の問題は、この言葉の定義が曖昧なところにある。
スピリチュアルなことを信用出来ない人々は、この曖昧模糊とした
肌触りの良い否定しがたい「言葉」の使い方にあるのだと思う。
ズルいと。

なぜって、
ご都合主義的スピリチュアル者にとっては、如何ようにも、適当な概念や
言葉を駆使して自分の意見やエゴを正当化してしまえるのだから。

しかもそれは、浅薄な主張の仕方、あえて言えば、言葉を発している
リアルな本人像が浮き出てこないような主張の仕方なのだから。


例えば、
ケース1

奥さんがA派(ポジティブシンキングで「愛」や「感謝」の気持ちですべてを見なさい派)
で、一方論理思考の強い夫がいる夫婦は、たいてい、この罠に落ちてしまう。


妻 「あなたはどうしてそういつも物事をネガティブにとらえるのよ。
   もっと私たちの成りたい姿、成功した姿を強くイメージして、そ
   こに愛を持って進んでいきましょうよ」


夫 「ふつうに考えればこうなるだろう。今の僕の給料と家の広さでこ
   んな家具や電化製品を買うのは無理だよ。後で生活が苦しくなる
   のは目に見えているじゃないか。
   君こそ愛という言葉で、そうやってなんでもかんでもごまかすなよ!
   そもそも君の言う愛ってなんだよ。」


妻 「愛は。。。愛よ! やっぱりあなた、そんなことも分からないで生
   きているのね。 いい良く聞いて! 思ったことが現実化するの。
   だからこれからは、とにかく否定的な言葉、「出来ない」とか「ふさ
   わしくない」とか「無理」とか、そういう言葉は一切使わないでよね!
   泣いたり怒ったりしないでいつも笑顔でいるのよ!」


夫 「ところで、君がもう三年も前から壁に貼ってある、この豪邸の写真と
   スポーツカーとモルディブの写真、薄汚れてきて文字が見えなくなって
   きたからそろそろ剥がしたらどうだい? 
   2年で実現!って書いてあるようだけど。」


妻 「あなたが一向にポジティブにならないから私たちの夢が実現出来ないん
   じゃないの! 私たちはお互いにふさわしい相手じゃないのよ。
   あなたと一緒に生活していくのはもう無理だわっ!」


夫 「お前、泣いているのか」





ケース2

夫がスピリチュアル好きのB派(そのままで既に完璧なのであなたのあるがままでいなさい派)
で好き勝手なことばかりして、奥さんが論理思考の強い人だった場合。


妻 「あなたはいつもそうやって自分勝手に好き勝手なことばかりして、少しは
   普通の夫らしく我慢して、子どもの面倒くらい見なさいよ」


夫 (何を言っても火に油を注ぐので、すべて心のなかでひたすら愛の想念を
   妻に送る。)(言葉には出さずに)僕は本当の叡智を学んだから、ありのまま
   で生きていける数少ない完璧な素晴らしい人間なんだ、と自画自賛



妻 「何か言ったらどうなのよ」


夫  ただ微笑みながら無言。(時間の経過とともに妻の怒りが収まってきたら)
   やっぱり愛の力は偉大だな、とひとり納得して、次のやりたいことを探す。


毎日がこの繰り返し。




ケース3

恋愛関係にある男女。女性がC派(すべては愛で、すべては完璧なので
信頼と感謝が大切派)で、男性が現実的な場合。


男性 「君もそろそろ就職活動した方がいいんじゃないかな。もう失業して半年以上
    になるだろう」


女性 「今は流れに身を任せているときなの。きっと働くべきときが来たら、そうした
    仕事とベストなタイミングで出会えるの。そういうものよ。すべては完璧に
    出来ているのよ」


男性 「でもこんなに不景気になってきて僕もいつリストラされるか分からないよ」


女性 「宇宙への信頼と感謝が足りないのよね〜。いい! すべては完璧なの。もっと
    生きていることに感謝して!」


男性 「生きるのに感謝しているうちに飢え死にしたらどうするんだよ。そもそも宇宙
    への信頼って、どこのどいつを信頼するんだよ!」



パートナーシップも一方のみがある信念を強く持っていると、コミュニケーションは
このように深まらない。
だから、その人の本来の姿が立ち現れてこないので、
ますます浅薄なコミュニケーションとなる。
このような感じで悪循環に陥っていく。


さて、

  「愛」とは何か?


  「感謝」とは何か?



A派の人々が言う「愛」は、怒りや執着などの想念
にいつまでもとらわれていないで、

「物事の良い側面を見よう」としなさい。

という意味で使っている。


   愛=物事の良い側面に目を向けること




一方C派の人々が言う「愛」はもっと深いものだ。



  「すべてが愛である=愛はすべてにあまねくある」

では、
そのような愛はどのようなものだろう?


すべての存在を成り立たせているもの。
またはそうした力・エネルギー。

そしてそれは、
すべての創造物にあるもの。
一見いいように見えるモノにも、そうでないモノにも。
目に見える創造物にも目に見えない創造物にも。



そうであるなら、そのような「愛」は、

   「無」から創造がなされるときのエネルギーなり力なりの全体のこと。

そうなるであろう。


実際には「無」からの「創造」は論理的にはあり得ないので、
仏陀はこの「無」のことを「空」と呼んだ。


「空」なる場からの創造プロセス全体。

それが、

「愛」

という意味。


「空」は創造活動の基盤となる「場」のようなもの。
 愛も同じ。加えて、その場からの創造プロセス全体をも含む。
 もっと言えば、創造活動によって創られた被造物の創造プロセスも内包している。


  「空=愛」

Vywamusはそういう。


  「Nothing is Everything」(なにもないがすべてがある)

サイババはそういう。


「愛」=空なる場からの創造プロセス全体


だからこそ

「すべては愛である」

となる。


「すべての創造物=愛」

となる。



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「愛」に生きるとは「創造」に生きる。ということだ。

自らの創造を可能ならしめている場なり在り方への、深い感謝の念は、
創造活動をしてはじめて生まれてくるものだ。


   この創造が出来る歓びへの感謝



 「創造」に生きるとは、自分らしく生きるということ。

  創造する主体はほかならぬ自分自身なのだから。


でも、その
「自分らしく」が分からない。


しかし逆説的だが、だからこそ私たちは「創造」に生きる。のだ。
私たちは創造を通して自分自身への手触りを同時につかんでいる。


  創造によってはじめて「自分らしく」が見えてくる。


そして、

  自分にとっての「より良い自分」の創造。そのために生きる。


いつしか、そうなる。

必ず、そうなる。
  
   創造物=自分自身

なのだから。


これは円循環して永遠に続いていく。
すべての創造主も被造物も貫いて、永遠に循環拡張していく。

  完璧!


なにしろ「愛」なのだ。。。


続きは次回以降。




   Art Swing MAMIさんのLove#2