オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

学問と学びの違い

A 勉強とは、次のようなプロセス。
1 情報のインプット
2 ある方法(解法)・公式の記憶
3 方法の適用によるアウトプット

B 人生での反復とは、次のようなプロセス。
1 情報のインプット=出来事と向かい合い
2 過去うまくいった方法・定義の適用
3 方法の適用によるアウトプット

C 人生での学びとは次のようなプロセス。
1 情報のインプット=出来事との真正面からの向かい合い
2 適用すべき方法・定義の検証
3 新しい方法の実践
4 出来事の推移を見守りながらの内省


AとBでは、そのプロセスは同一である。
Aでは、ある設問を解けたという達成感のもとその解法にこだわりがうまれるかもしれない。
Bで、ある出来事に対処したという成功体験が、その方法へのこだわりを生むのと同様に。


決定的な過ちは、ある方法に熟達しさえすれば、どんな人生においてもすべての解法が得られるに違いないという、思い込みにある。

そして、方法を習得するための情報のインプットに精を出す。
人によっては、人生に対しての万能解が存在することを前提にそれを探してしまう。
受験勉強においてすべての解法が存在したのと同様に。


D 受験やある資格取得に成功した人の特徴は以下のようなもの。
1 自分はどんな方法にでも熟達することが出来るという信念(過信)。
2 とにかく情報(出来事の意味や解決策と学びの材料)を教えて欲しい。
3 情報のインプットに終始する。新しい方法の実践には、なかなか移行しない。
  そのための自分にする言い訳には長けている。
4 人生のプロセスが思考(実験や実証)によって完結出来ると信じている。
5 第三の目のチャクラが開いていない。
  科学的方法論というものがひとつの方法にすぎないことに気付いていないため、
  自らの知性の働きを不自由にしているから。


D1〜4のような過信があるがゆえに、かつてオーム信者には高学歴者が集ったのだろう。
オームに限らず多くの新興宗教は、わざと教義を難解にしている。
そして信者の受験マインドと上昇志向を刺激するように作られている。
受験に成功したもののリアルな生活では充足感が得られず、また、何かの困難にぶつかっている学生は、こうして容易に宗教や自己啓発セミナー・成功哲学の餌食となる。


カウンセリングの仕事を始めて17年目になるが、ひとつ言えることは、上記Cの理解とAの理解は、全くその資質が異なるし、むしろ正反対に近いということ。
いや、正反対どころかABDの在り方は、Cの学びのプロセスの足を引っ張ってしまう。


自らの方法を疑わなくてはならない。

これは、実は勉強の世界での成功体験がない方がスムーズに行くようだ。(私のことではないよ。うぅ。どうかな)
それはハートとともに生きるには、スピリチュアルに生きるには 上記C-2 C-3が不可欠となるからだ。

C-2では、自分自身の知性(知性と思考 2を参照)やハートとの結びつきは不可欠になる。
従来の思考パターンから離れることが、不可欠になる。
それは、自らの自信の拠り所から離れることを意味している。

加えてC-3では、自らの適用する方法が正しい解法に至るという保証は、永遠に与えられない。
やってみるしかないというところに追い込まれていく。
受験勉強では紙とペンと思考だけで良かったのが、C-3では、肉体と感情とハートを使わなくてはならない。
しかも、これがハートなのだという確信は得られないままに。


これがイヤだからこそ、ABDの人間は、結局、D-3に終始してしまう。

それは思考であり知性ではないのだ。

実践が必要ないならば、人生という舞台は必要ない。

思考実験で終始出来るならば、この物質世界に肉体を持ってやってくる必要がない。
そこが分からなくなるほど、自らの方法論におぼれてしまっているのだろう。


正しい知性はあなたを自由にする。
まわりも自由にしていく。

正しい知性は、ある種の感情と肉体の鍛錬と修練を必要とするのだから。
それゆえ、物質界に影響が及ぼされ、自由になる。


「自由」とは何か。

Cに沿って考えるだけでも、一週間は退屈しない。

それが知性なのだと思います。


Art Swing MAMI さんの描くボロブドゥール寺院 『Big Love』


    海から眺める
   日の出の光。

    魔法に満ちた
   人生の始まりです。




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