わたしは主体者を必要とする言葉はあまり好きではない。
日本語としての良さをあまり感じないからかもしれない。
さて、タイトルのような言葉には、ふつうそれを使う主体者が存在する。
何らかの説明や内容を「分かる」「理解する」「理解できない」という場合はとくに。
何に対しても、すぐに分かったというひと、いつまでも分からないというひと、いろいろいでしょう。
たとえその主体者が分かりたいと思って説明を聞いても、もしそれを分かってしまったら/理解してしまったら、自分は変わらなくてはならないことに追い込まれるとしたらどうでしょうか。
【分かる=安心が得られる】
【分からない=現状維持で良しと出来る】
理解出来ないとひとが言うとき、それは「分かりたくない」のかもしれません。
特に自分の内的安定が脅かされるたぐいのことでは。
一方、分かりたいと思うとき、わたしたちはその説明を、既に自分のなかにある引き出しのパターンに当てはめることが出来ている。
その意味で、分かるとはどこまでも「自分なりに分かる」でしかない。
普遍的に分かる、ということは内的/精神世界においてはない。
だがたとえ普遍的に分かるということがあったとしても、それでもなお、自分なりに分かる方に価値があるのだとわたしは思う。
「自分なり」ということは主観的ということでもある。
客観的に分かるのではなく主観的に分かることは、実は全体的に分かるということでもあるからです。
なぜならわたしという主観のなかに全体が内包されているからです。
分かる/分からないにこだわるひとは、学校での勉学のように「客観的に分かる」というイメージに固執しその方向のみに注力して理解しようとしているのかもしれません。
しかし、分かるとは常に主観的に分かることなのです。オーラで言うとこのような客観的に分かろうとしている場合、第三の目のエネルギーは伸びていかない。
客観的に分かるというのは安全地帯空白地帯に自らを置きながらの理解なので、「流れ」というものがもたらされないのだと理解している。
エネルギーが「流れる」とは、川の流れが様々な景色を乱反射しながら流れていくように、全世界との関係性が生まれる土台のようなものなのだ。
その中心点/原点にわたしが立っている。わたしを通して全世界との関係が生じている。そのときにメタリック色の輝きが発せられているとMAMIさんはいいます。
オーラやチャクラのエネルギーを観てわたしが「分かる」のも、いつでも主観的です。
そして主観的に分かったことをクライアントに伝えると、クライアントのなかでの「全体的なわたし自身」が刺激され、「流れ」がうまれ世界がそこに乱反射し、気づきに至るのです。
「分かる」「分からない」をわたしはこのようにとらえています。
ボロブドゥール寺院 ストゥーパ内の仏像