高校の修学旅行で、京都嵯峨野の寺々を散策しているとき、きっとこの場面は永く記憶に残るだろうと思ったことがあった。
理由はなぜだか分からない。
その散策自体が重要だったからなのか、あるいは嵯峨野の地の影響なのかは分からない。
誰かと会っているとき、また何かの光景を目にしているときや、言われた言葉が自分のなかで大きく響くときなど「いま自分はなにか大切な瞬間に立ち会っているに違いない」と思うことはないだろうか。
デジャブ(既視感)とは違い、高校時代特有の少しぼんやりとした意識の頭なのに、自分のどこかがせわしなく動いている感覚といえる。
将来なにが起きるかは具体的に分からないが、今後の人生に向けての大切ななにかを、いままさに知りつつあるかのような気持ちというべきか。
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不思議なことだらけの量子力学のなかでも、その実験結果がもっとも不可思議とされている「遅延選択量子消しゴム実験」というものがある。
複雑な実験なので非常に簡単にかいてしまう。
意図的に未来の光のふるまい(経路)を分かるようにすると、過去の光はそのこと(未来)をあたかも知っていたかのように常に「粒子」としてふるまい、(未来と経路が)ひとには分からないようにした場合は「波」としてふるまうということが証明された実験。
この実験結果から、光やミクロ的存在のふるまいは、以下の2つの可能性が考えられている。
1)将来を予知している。または時空を超えて過去に働きかけ過去を変えることが出来る。
2)実現されうる可能性すべて分の多世界が用意されている。
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嵯峨野に「落柿舎」という、向井去来の草庵で小さな寂れた遺跡があった。
当時なぜ修学旅行でこんなマイナーな場所に行ったのか不明だが、私の属していた班に教養ある生徒がいたのだろう。
常に学校行事には最低限の関与しかしてこなかったので、その分、文句は言わずいつもたんたんと皆のやることについて行っていた。
この落柿舎の周りに拡がっていた、まだ手入れされていない草々を観て散策しているとき、先程の自分のどこかがせわしなく動いている感覚があった。おそらく「いま」が大切な瞬間になっていくという感覚。
落柿舎とその周辺は現在では、当時と異なり十分すぎるほどの手入れがなされているばかりか瀟洒なカフェまであった。
先日ふと思いだし、数十年ぶりにいってみたときの写真だ。
はたして、あのような不思議な感覚を自分はまた感じるのか?にも興味があった。
この辺りを歩いていると、修学旅行のことが鮮明では決してないのだが、いくつか思い出された。
男子4人女子2人の班で、わたしはひとりで一番うしろを歩きたがったが、そのポジションは女子2人になかなか譲ってもらえなかったことや、曇り空や草木のにおい風などの空気感、この地から宿への帰りに夕食まで我慢できずマクドナルドで食べたことなど。
歩きながら、私は当時の高校生のわたしに、こころのなかで話しかけていた。
「安心して好きなことを探求し続ければいいんじゃないかな」
「学校や社会への不満はたくさんあるだろうが、それは大人になっても変わらない。ただ自由な感覚は持てるようになる」
「思ってもみないようなことを大人になってからしている」
「高校生というのはなかなか大変な時期だよ」
そして思った。
今の私のこの声を当時のわたしは無意識下で聴いていたのではないだろうか。
だからせわしなくどこかが動き続けていたのだろう。
潜在意識は虚数の世界にも浸透していて、つまり時空を超えている部分がある。
マクロの肉体を持った私が過去にいるというタイムマシン的な意味ではなく、あくまでもミクロな私の過去意識と現在の意識同士の交流が起きているのではないか。
それは、未来に向けてまだ拡がりある確率を、現在の自分の意図によってある方向に収束させていくためにとも言えるだろう。
へんな話しだが、以降のわたしは現在の私の声に導かれていたのかもしれない。
そう思うと静かな感動が何処か遠くからやってきた。
それは、先程とは逆に、高校生のわたしが現在の私に何か大切なものをもたらしてくるような感覚でもあった。
意識に時空を超えた働きがあるならば、インナーチャイルドワークの価値はここにもある。
現在の自分が過去の自分を救いだし、現在の自分に癒しと自由をもたらすという意味でである。意識は極めてミクロであるゆえ、タイムループしうる。
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一旦このように捉えてみると、癒しの幅や可能性とその自由度は随分と拡がるばかりか、オーラのとらえ方やその変化の可能性も、輪廻転生のとらえ方までも自由度が高まる。
たとえば、「過去生」を「(ミクロの意識空間から)思い(そして)出す」とき、わたしたちは、現在の自身の意識を変えている。意識がどのように変化していくのか、次元が異なるので通常では分かりはしないが、何かしらの現世の方向性に影響があるはずだ。
未来は不確定だからこそ、自分がどのような未来の在り方を創りたいかを意識レベルで探求しつづけることが可能である。
そのことこそ、歓びではないか。
以下の「量子消しゴム実験」が証明する、未来が分からないときは「波」であり確率的に収束していないことが、そのような自身の探求や創造の自由と歓びをわたしたちに与えてくれているということなのだ。
わたしたちに、自分流に歓びや美を探求せよ創造せよと、誘っているのだ。