「裁く」と「頑張る」は似ていると思う。
「裁く」ひとには「頑張る」ひとが多いからだろうか?
自分を「裁き」 ながら「頑張って」いるとか。
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がんばることは、なににつけ「良き」こととされています。
しかし、がんばってがんばって、登りたくない/登るべきでない山の頂上に早く立ったところで、降りる手間と疲労を考えると、それは望ましいことではない。
がんばるべきであるとハートで確信したことを、その意図をキープしながらがんばるのであれば、こうしたことは防げると思います。
以前、魂はあなたがとった過去すべての選択を活用すると書きました。
ですから、間違った/登るべきでない山に急いで登ったとはいえ、それを魂はその後の人生に活用していくことでしょう。
だったら、やはり、なんでもかんでも頑張った方が良いのではないか?
そうではない。
さて、先に記した「ハートで確信したこと」をどのように見いだせば良いのか。
それはその行為が目的や目標に向けられてのものであるのかないのかです。
やりたいこと/やるべきことに目的合理性がある(何かの目的に向かう手段としての行為)ならば、さほど一生懸命にならずにたんたんと行うと良い。
*学校や社会では目的合理性があるのだからこそ頑張れと言われますが無視です。
宇宙の目的は、拡張と流れ(動き)くらいなものだからです。
やりたいことに目的合理性がないがやりたいことならば、それは是非とも「頑張る」と良い。
目的合理性がないとは、それは「たましい」や「ハート」からの誘いであり、そのようなことは頑張ること自体が歓びになるはずだ。がんばればがんばるほど歓びややり甲斐が増すという、不思議な体験をするだろう。
がんばることが探求であり、愉しさであり、歓びとともに充ちてくる幸福感であるはずだ。
この宇宙には目的合理性のない行為を頑張った人のみが、味わうことの出来る歓びがあるのだ。
ある種の特権的なものだ。魂やハートの導きに与れる特権なのだ。こればかりは「ある」か「ない」かなので、人を教え導くことは難しい。
大多数のひとは目的合理性のあることのみを頑張るので、それが見いだせない事柄について頑張るひとのことを、不思議な目で見てくるかもしれない。
人に伝えられることではないので、こればっかりは仕方がない。
ただその人たちも、愉しそうなあなたの姿を忘れることはないでしょう。
その人たちのこころに何かの種を蒔いています。