「自分」についての考察は、過去の哲学者たちだけでなく、今後も全人類が探求しつづけることが望ましいテーマです。
ここではスピリチュアルな視点から観た「自分」について書きます。
スピリチュアル的に言うと、すべての大元として「無限に絶え間なく永遠につづく生命エネルギーの拡張」があります。
それは「自分」という存在が浮かんでいるエネルギー場のようなものです。
「場」というと空間をイメージしてしまいますが、次元が異なるので、空間的なものではない意識場です。意識を空間的にとらえるひとは少ないと思います。
ところで、わたしたちはこの「無限に絶え間ない拡張とながれ」を「天界」と呼んだり「根源(Source)」と呼んだり「高次元」と顕してみたりします。
この天界的生命エネルギーのなかにひたりながら、わたしたちは「自分」の探求と創造をしています。
わたしたちの方でも、この天界的な在り方を探求しながら、「自分」というものを形づくろうとしてきました。
以前ご紹介した白川静も以下のように書いています。
「神にはことばはない。
ただそれとなき音ずれによって、その気配が察せられるのみである。
神意はその音ずれによって推し測るほかはない。
これを推し測ることを意という。」
西欧ではキリスト教の最後の審判の影響から自由意思の使い方を重視していますが、東洋的意思の使い方とは馴染まないと、わたしは以前から考えていました。
この文章を読んだときにその違和感が分かった気がしたのです。
東洋においては、自由意思の「意」はあくまでも神意を推し測るための「意」であって、独立した自分の意思を貫くためのものではないのでしょう。
自らが行動を起こすときや意思を使うとき、まずは神意(天界)を察してからそれに沿う形で使っていく。そこに個人(自分)の在り方が自然と立ち現れてくる。
ここで言う「神意」は「無限に絶え間なく永遠につづく生命エネルギーの拡張」の在り方や方向性のようなものだと考えられるでしょう。
自分という存在の在り方が、絶え間ない生命エネルギーの在り方に沿っているのか沿っていないのか。
わたしたちは、この絶え間ない生命エネルギーの在り方の影響やつながりから一時たりとも離れることはありません。天界という海に完全にひたっている存在だからです。
しかし、わたしたちの方から、この天界的存在を忘れてしまうことは頻繁にあります。
このとき、わたしたちは「神意」を推し測るとことさえも忘れています。
大きな全体と切り離されているのですから、当然「分離感」は強まります。
全体と切り離されているがゆえに、一層、個人としてもがき苦しむことになります。
なんとかしたいとの思いから懸命に考えるでしょうが、思考はハートと異なり直線的な動き/エネルギーなので、より分離は強まってしまいがちです。
「大きな自分」は天界の海とともにあり、「小さな自分」は自らでその海と切り離した状態で、分離感に悩みながらなんとかがんばることになります。
自分を構成している「肉体」「感情」「思考」「知性」「ハート」「魂」を出来るだけ神意(天界の在り方)に沿わせていこうとする。それは「ハート」と「魂」に沿わせるのとほぼ同義です。
神意は絶え間ない探求と拡張のながれにあるので、「あなた」も固定化されることのない絶え間ないながれのなかにあります。
天に沿わせつつも、あらわれてくるものがあります。
「あなた」です。
ロマンス
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虹のトンネルを
抜けると、そこに
ロマンが広がる♪