孤独や寂しさを、全く感じないという人は、いない。
「すべての源」から、エネルギー的な距離感を保ち離れて、
私たちは、この3次元世界に存在しているのだから、
よほど鈍感な人か、おめでたい人でない限りは、
皆なんらかの孤独感、寂寞感を感じている。
私たちが、個人としての自由意思を持てるようにするためには、
すべてとのつながりから、ある一定の距離を保たなくてはならない。
すべてとの繋がり感があまりにも強いと、全体感が強すぎ、
個としての意識が、希薄になってしまうからだ。
だから、エネルギーであるオーラフィールド上では、
全てとのつながりが保たれて、存在してはいても、
通常私たちが目にする物質上では、個人々々それぞれが、
分離して存在しているという構造を持つ。
エネルギーとしてのつながりは保たれているが、物質的強固なつながりはない、という状態である。
もし物質的・肉体的にもすべての人がつながっていたら、こんなやっかいなことはないでしょう。
二人三脚やむかで競争だけでも、あんなに大変だったのに、皆が繋がり合っていたとしたら。。。
想像するだに怖いですね。
個々人が、分離して存在するのは、
私たち皆が、自由意思の発揮を通して、自分自身の深みを知る旅人だから。
つまり、つながりよりもむしろ自由意思が尊重されているから。
そして、切り離されているように感じることから生じる「源」という、私たちの故郷への憧憬が、
その旅全体を助け、その人自身の拡張につながっていくことでもあるから。
その拡張が分離感を癒し、執着や誤認を解放し、自由へと導き、
すべての基点である自分自身が創造主であるということの歓びを、喚起していくから。
しかし、物質上の姿を通して、私たちは日々認識を新たにしていく存在であるため、
どうしても「分離観」こそを真実なるものとして捉えがちになる。
日々、目にするものは分離して存在しているものばかりだから。
あなたと私も、肉体的に異なり、分離しているのだから。
私は、私以外と「分離して」存在している。
だからこそ、この「私」が頑張らなくては、
「私」が「私」を支えなくては、という焦燥感に、
皆、駆られていく。
そして結果的に、自分でますます分離観を強めてしまう。
この「私のみが私を支えなくてはならない」という概念と、
分離観の強まりを出発点として、
競争、比較、嫉妬、怒り、罪悪感、無価値観、欲望、等々、
様々な課題、問題、ブロックのオンパレードが始まります。
そのため、ますます悪いことに、「私こそ」「私こそ」と一層頑張り続けることでしょう。
一層、孤独になっていきます。
自由意思が、最大限尊重されているなかで生きるということは、
意識が拡張していかないとすると、孤独感や寂しさをはじめ、
様々なテーマとともに生きざるを得ません。
孤独感や寂しさから自由になるためには、
「意識の拡張」と「孤独感や寂しさから生まれる源への憧憬」が、不可欠なのです。
逆説的ですが、孤独感や寂しさそのものが、孤独感や寂しさを癒しているのです。
「私のみが私を支えている」という分離的概念も、所詮、一つの見方に過ぎません。
仮説に過ぎません。
まずは、
「私が私を支えているわけではない」
いえむしろ
「すべてがすべてを支えあっている」
もう一歩進めて
「すべてはただすべてである」
という視点を持ってみましょう。
信じられなくても、一度そのような仮説を持ってみましょう。
複数の視点を持つことは、人を自由にしますから。
そして、その上であなたは、
「今、どうするべきか」
「今、なにをするべきか」
と内側に問いかけてみましょう。
ハートに手を当てて、見い出してみましょう。
同時に、孤独や寂しさから逃げないで下さい。
ありのままを大切にします。
これらを遠ざけると、本来、皆が持っている「すべての源への憧憬」が失せてしまうからです。
不自然になります。
拡張や進化というものが、概念的なもの、思考的な机上のもの、にすり替わっていき、
欲望充足的な、浅薄なスピリチュアリズムに陥ります。
自分の心の動き、精神の働きすべてに、繊細に気付いていようとすること。
意識の動きに作為を講じないこと。
それが、実は、
「ありのままの自分自身を許す」
ということに、つながっているのですから。