オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

正しさの主張と怖れ そして 性のチャクラ

「自分の言うことが正しい」と、誰もが思いがちだ。


全く正反対のことを、双方が言い合っているのに、当人たちは、
自分こそ正しい、と心から信じている。


そして、それを見ている人たちも、
「こちらが正しい」
「いや逆だ。こちらこそ正しい」と言い合う。
そして、離合集散を、繰り返していく。


なぜ皆、「自分は正しい」「こちらこそ正しい」と主張するのだろうか。


以下に、いくつか理由を挙げてみる。
   他者からの承認を得たいから。
   非難されたくないから。
   自分の大切にしている信念を尊重して欲しいから。
   自分の考え方を尊重して欲しいから。
   自分を尊重して欲しいから。
   一人でも多くの人に理解して欲しいから。
   勝ちたいから。


これらは大きな意味で「欲望」だ。


ではその「欲望」はなぜ生じるのか。


     欲望                  生じる背景 = 怖れ
 他者からの承認を得たいから  ← 他者からの承認を充分には得られていない。
 非難されたくないから       ← 非難されることが怖い
 自分の大切にしている信念を尊重して欲しいから。 ← 自分の信念を尊重してくれない
 自分の考え方を尊重して欲しいから。  ← 自分の考え方を尊重してくれない
 自分を尊重して欲しいから。        ← 自分を尊重してくれない。
 一人でも多くの人に理解して欲しいから。← 自分の言うことを理解してくれない。
 勝ちたいから。          ← 勝ち続けないと価値がない。生きてはいけない。



この「生じる背景」に書かれた部分は、「怖れ」とも言える。
こうした「怖れ」を動機として、「自分は正しい」と主張すると、どうなるか。
それぞれ右側の「怖れ」に書かれた方が、現実化していくこととなる。


「怖れ」の背景には、まだまだ階層的に、
それぞれの生じる背景としての「怖れ」
あるいは、「その怖れの理由」が、横たわっていることだろう。
そうした「怖れ」の側のより深い部分、根本的なテーマが、現実化していく。


「怖れ」の側ではなくて、左側の欲望が、現実化していくことこそが、
「人生とは鏡」の意味だ、と考えている人が、
スピリチュアルなことを探究している人のなかにも、多いかもしれない。
だから、欲望の側に書いたようなことを真剣に願えば、
「思考は現実化する法則」により、いつの日か叶うと。


しかし通常、潜在意識では、
怖れのメカニズムの方が、欲望のメカニズムよりも、
圧倒的な強さで働いている。


それは、「怖れ」の方が、「欲望」よりも、
はるかに、「不自然」だから。
より根本的だから。


 なぜか。


怖れは、分離観をそのベースとしている。
分離観とは、自分だけが切り離されている、と感じる感覚。
何から切り離されていると感じているのか。


 全体。
 すべての源。


そしてこの分離観こそ、
私たちの魂が最も癒し、修復したいと思っている部分。
なぜなら、それは全くの誤解だから。
いつなんどきも、すべてとひとつながりで、存在しているから。


「自分は正しい」という主張を、すればするほど、
ますます排他的なエネルギーが強まることになり、
自分のなかにある分離観を、強めていくことになる。


結果、ますます自分が孤立化していく現実を、創り出す。
より一層、他者からの承認が欲しくなり、「自分は正しい」と主張する。
ますます分離観が強まり、孤独感と寂しさに、さいなまれる。


本来は、他者から承認して欲しい、との思いからの主張が、
より一層の孤立化を招いている。


これらは、オーラで言えば2層のテーマ。
チャクラで言えば、「性のチャクラ」の「両極性のバランス」のテーマ。
善悪、正否、正誤、男性性と女性性など、相反する両極にあるものを、
相反するものとして見なすのではなく、相補的なものとして、
つまり他方を、もう一方の(自らの)理解を促進するものとして見ていくとき、
両極性のバランスがとれた状態となる。
こうしたとき性のチャクラが、開いていく。


両極に対置されているものを相補的にとらえ直す、とは。
「自分は正しい」「相手が間違っている」と、とらえるのではなくて、
なぜ自分は正しいと考えているのかを、相手の見解を通して見つめ直す。
なぜ自分は正しいと主張したいのかを、相手の主張したい気持ちから見つめ直す。
自分は正しいと主張する目的を、相手の主張の目的から見つめ直す。
自分の怖れを相手の怖れを通して理解する。



ここまでくれば随分と、対立も分離観も、和らいでいるのではないだろうか。


では、もう一歩進めてみて、
まず、相手を認めてみることを通して、自分が認められる、
そのプロセスを見つめてみる。


  ひょっとすると、双方、似たもの同士だったのでは。