オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

無理してオーラを見えたことにしない

akuaで開催している「オーラのセミナー」では、
あくまでも、オーラを肉眼で見ること、を勧めている。
しかし、他のスピリチュアル団体が開催しているオーラリーディングのセミナーでは、
第三の目で見る(透視する)ことを、重視している方が多いと聞く。


なぜだろう。
理由が、分からない。


多くのチャネラー、特に、アメリカ人のチャネラーに多いと思うが、
その人達のチャネリングする様が、大統領の選挙演説のように、
浪々高々しい感じのものになってしまうのも、その理由が分からないが、
オーラリーディングをするに当たって、
第三の目で透視することを推奨する理由も、同じように分からない。


オーラを第三の目で見る(透視する)ことは、私にはあまりいいこととは思えない。
なぜなら、オーラリーディングの実践に当たって、幻想の世界に入ってしまい、
「今ここ」から、ますます離れて行ってしまうから。


「イメージで見える」は「イメージでしか見えない」。
それが「ありのまま」だろう。


オーラが肉眼で見えていないときの「ありのまま」は、
「私には、オーラが見えていない」である。
それを、第三の目に意識を集中してみましょう。
透視をしてみましょう。
何色が浮かびましたか、どんな形状ですか、
と誘導し見ていくことは、
「ありのまま」から、かけ離れていく行為である。
異論はないだろう。あるのかな。


もう一つ、肉眼で見えないということからスタートせずに、
第三の目のイメージ力を使って、あたかも見えているという状態を創り出し、
そこからスタートする、その動機は、
セミナーリーダーも、また、参加者も、
「オーラが見える」ことを
「オーラが見えないこと」より上位に置いているからだろう。
そして悪いことには、セミナー中それを肯定・強化していく。
「あら、見えるているじゃない」 「すごいわよ」という感じで。


一方で、同じセミナーリーダーが、「皆は、神です」という。
人の平等と、唯一無比性、偉大性を謳う一方で、上下観を肯定していく。


こうしたことが今、日本の社会に蔓延していないだろうか。
教育現場では、平等と唯一無比性を、
一方、社会では、能力に応じた上下観を肯定している。
単にその方が、皆が分かり易く、納得し易いからだろう。
ハートという検証不可能なものを扱えずに、安きに動いている。


誤解しないで欲しい。
イメージで、オーラやチャクラを見ても、別に構わない。
だが、それは見ているのとは違い、
あくまでも「こんな感じ」というイメージ、
もっと言えば、空想であるといことから、離れないでいて欲しい。
イメージや感覚的なものと、存在そのもの、事実そのもの、
との向き合いをきちんと区別しておいて欲しい。
その方が直感的感覚的な感性も、より高まっていく。
事実とイメージとの峻別が、無意味なイメージの正当性を避けさせてもくれる。


あえて、おすすするならば、
最初から、イメージでチャクラのエネルギーと同調して、
それを、ただ色を使って描いてみることだ。
最初から、イメージであるという位置付けで。


それならば、オーラのエネルギーフィールドと同調していくことを助けてくれる。
オーラを見るのは、妖精を見るのに比べて、さほど難しくはない。
だから肉眼で見ようとすることを、一番おすすめしたい。


そろそろ価値判断のない「ありのまま」に戻ろう。
足の速い人・遅い人、身体の大きい人・小さい人、太った人・やせた人、
心の優しい人・いじわるな人、勉強の出来る人・出来ない人、
仕事の出来る人・出来ない人、整理整頓や手先の器用な人・不器用な人、
オーラの見える人・見えない人、
すべては、まず、「ありのまま」である。


仕事や勉強の出来る人は、出来ない人の分まで、全体効率化を考えながらする。
意地悪な人から傷付けられた人を、心優しき人は、癒し支援する。
身体の大きい人は、小さい人の手が届かない物をとってあげ、
時として小さき人の下敷きになる。


整理整頓が上手な人は、掃除をし、
足の速い人や車の運転のうまい人は、パシリをし、
太った人は痩せる努力をする。。。論理が乱れてきた。


もとい。
だから、上記のような相違というものは、
共同体に対しての支援分野を探すと同時に、
共同体のなかで、最適支援配置をするためのものでしかない。


なぜか。
本質的に、人は、誰かを支援したいのだ。


誤解しないで欲しい。
役に立つことで、自分の価値を見出したい、という話ではない。
本質的に、人は誰かのために、何かのために生きたいのだ。
全体に対して、自分を活かしたいのだ。
そのとき、歓びを感じるように出来ている。
オーラ的にも。


なぜか。
「認識するもの=自分」 だから。
そして自我(エゴ)の放棄が、深い歓びだから。


なぜか。
自我の放棄。
それが自由だから。


誰かを癒したいと思う人が、オーラリーディングのセミナーに集まり、ヒーリングセミナーに通い始める。
だが、そこに微妙な形で、構造化されている上下観に刺激され、
当初の、本質的な目的を見失ってしまう。
同時に、現代社会は能力主義、自己責任という言い廻しで、上下観を煽る。


自分には、何も出来ないと思っている人は、
自分に出来ることは、何かないかな、ということを、見い出し続けていて欲しい。
あるいは、自分の持つ「出来る」という概念が誤っているのでは、
と、省察してみて欲しい。
ほとんどの場合は、後者。


話を元に戻す。


表題「無理して、オーラを見えたことにしない」は、
自分のなかに、無意識に身に付いている優劣観、上下観を、
気を付けて見て欲しい、ということ。
「ありのまま」は「ありのまま」に過ぎないのに、
そこに上下観など余計な価値観を持ち込むから、事態がややこしくなって、
自分を見失ってしまう。
オーラをイメージで感じることを、第三の目で見えたことにして、
深く幻想の世界に入り込まないこと。
そうして幻想を強化することは、様々な課題を招くことになるから。

オーラのハート層は、無執着の質を内包している。
だから、「ありのまま」を「ありのまま」に、受け止められる。


「ありのまま」を「ありのまま」に受け止めていくとき、
あなたのハートは、初めて、強く動き出すことが出来る。
ハートチャクラが、開き始める。


ハートのテーマは、愛情の成就にあるのではない。


「今、ここ」 「ありのまま」 の完遂にある。