戦略は「戦い」を「略する」と書きます。
戦いに至る前に、何とか知恵を使って、血で血を争う状態を回避する。
それが「戦略」というものだと思っています。
企業に対して、戦略コンサルティングを行う際、常に留意していることです。
だからもし、真正面対決となり、どちらかが血を見る状態になったならば、それは知性の敗北であり、すなわち「考える」ことの放棄である。
あとの一切は、肉体とその肉体を操る感情的な部分のみに委ねられる。
オーラで言えば、1層(肉体)と2層(感情と思考)にすべてが委ねられ、
3層以上の知性とハートと神性さが放棄される。
「いくさ(戦争)」とはそうしたものだろう。
だから、女性や子どもは戦争に反対する。
ハートや生命の神聖さにおそらく男性より鋭敏だから。
1945年8月6日午前8時15分。
今後も人類史に永遠に刻み続けなくてはならない悪夢が起きる。
人が人に対して使った最初の核。
広島への原爆投下。
ここに至るまでを時系列で見てみたい。(ほとんど平和記念館の資料に基づく)
1943年5月 この時点ではドイツに原爆投下を予定している。
ちなみに第二次世界大戦中アメリカは、核兵器開発に当時の費用で20億ドル(7200億円1ドル360円換算。1945年の日本の国家予算は214億円)とのべ12万人を動員した。
この莫大な費用の正当化がアメリカには不可欠だった。
そして最初に原爆投下の候補地としてドイツがあがった。
1945年5月8日 ドイツ降伏 (5月2日にイタリア降伏済)
1945年5月8日以降、残るは日本となる。
1944年以降、アメリカは周到な準備を開始する。
1944年11月以降 日本における空爆が激化する。
しかし、日本のいくつかの主要都市は除外されていた。
なぜだか分かるだろうか。
1945年3月以降 東京大空襲をはじめとした無差別殺戮が始まる。
相変わらず、いくつかの都市は空爆から除外される。
例えば、それは、京都、横浜、小倉、新潟、長崎、広島。
なぜか。
原爆の破壊力を正確に測定するためには、完全な街の状態にしておく必要があるから。
原爆投下候補地は、投下するまでは完全な状態で保持しておきたいから。
アメリカにとって、広島への原爆投下は、ひとつの実験でもあった。
そして、思考の暴走による惨劇が現実化していく。
ドイツイタリアの降伏後、アメリカは日本本土への上陸作戦を1945年11月より開始する予定でいた。
しかし1945年夏に状況が一変する。
日ソ中立条約破棄による、ソ連の参戦予定と戦後処理での影響力増大だ。
このことを嫌気したアメリカは、
1945年7月26日 ポツダム宣言を発表
に至る。
しかしここでは日本側が交渉してきた「天皇制の存続」だけでなく、「核兵器の使用可能性」についても触れられていなかった。
ポツダム宣言を発表する前日、広島原爆投下の10日前のこと。
1945年7月25日 広島、小倉、新潟、長崎の4都市に原爆投下候補地は絞られていく。
1945年8月2日 広島への原爆投下命令が出される。
なぜ上記4候補地から広島になったのか。
アメリカ人向け捕虜収容所が広島には「ない」と想定されたから。
1945年8月6日午前8時15分。
アメリカ国家意志の反映として、広島へ原爆投下。
写真は原爆投下前と後の空撮比較。
原発ではなく原爆は、空中600メートルで爆発し核連鎖反応を起こした。
広島市の地表の温度は瞬間的に3000℃から4000℃になったとされる。
同時に強烈な爆風によりあらゆるものが瞬時に崩壊。
かろうじて形をとどめたのが原爆ドーム。
なぜ原爆ドームが有名なのか。
それ以外は、ほとんど原形をとどめなかったから。
多くの人も。
1945年10月の撮影(投下から2ヶ月後)
爆心地から6キロほど離れたところでの撮影写真
8月6日の夜からいわゆる「黒い雨」が直径30キロの範囲で降る。
莫大な放射性物質を含んだ雨であり、この雨で被曝し死ぬ人も多数。
なぜなら、原爆によりすべてが焼き尽くされていて、雨から逃れる場所はないから。
当時広島には34万人が住んでいたとされるが、
その年の間に14万人もの人がなくなったとされる。
私は今日、原爆ドームにタクシーで向かった。
広島駅から1000円程度の距離だ。
広島は駅周辺よりも少し離れた場所に中心地がある。
戦前からそうだったらしい。
駅からタクシーで向かう道中、だんだんと賑わいが激しくなっていくのだ。
そして広島でもっとも大きなデパートの「そごう」を見たと
思った瞬間に、ここです。と運転手さんに言われた。
そごうの斜め前に、テレビなどで見慣れた原爆ドームがあった。
驚いて「えっ」と声に出した。
すぐにはタクシーを降りられなかった。
あまりに繁華街なのだ。
「こんな中心地に原爆を投下したのですか」
と運転手に大きな声で詰問してしまった。
「悲劇を通り越した惨劇でした」
運転手森下さんのご両親は、原爆ドームから
8キロのところに当時お住まいだった。
ご両親はなんとか命はとりとめたものの、親類縁者で亡くなった人は多数に登るらしい。
悲劇は原爆爆発の瞬間だけでなく、その後にもあった。
熱風で大やけどを負った人々が次々に川に飛び込む。
広島は川が多く流れている都市だ。
「広い島」から名前の由来が来ているのかも知れない。
しかしその川(写真参照)は、その日、原爆の放射能によって異常なまでにシーベルトの高い高濃度放射能水になっていた。
戦前の原爆ドーム
第一の悲劇はそこからだった。
川に飛び込んだ人は、すぐに死んでいった。
でもやけどで痛くて痛くて熱くて熱くて喉が渇いてしょうがない。
だからどうしても身体を水につけたい。
水が欲しい。
しかし、すべての水は放射能汚染物となっている。
でも、飛び込む。飲んでしまう。
次々となくなっていったらしい。
そして、夜には「黒い雨」の追い打ちがあり、
その後は差別の追い打ちがある。
森下さんは原爆投下の2年後に生まれた。
当然被曝二世であり、被曝手帳はお持ちだ。
もう既に亡くなっている両親は、多くを語ろうとしなかったという。
彼の言葉の、ひとつひとつが重かった。
原爆投下後の惨状をしばらくしてから見た調査員は、
「むこう75年間は草木ひとつ生えないだろう」
と言った。
今、67年目。
幸運なことに、草木はおろか豊かで笑顔溢れる生活を、享受している。
原爆投下から66年目に311があった。
原発爆発があった。
でも、今、選挙の公約に「脱原発」は掲げる政党はほとんどない。
私たちは、一体全体、何をしたいのだろう。
国家の意志とは、一体、誰の意志の反映なのだろう。
それだけではない。
皆、成功を目指して自らのマインドコントロールに明け暮れ、そのせいで、心の内部では「様々な葛藤とあらそい」で充ち満ちている。
自らの心の平和ではなく、外側のコントロールに躍起になっている。
外側をうまくコントロール出来れば、さもすべてがうまくいくかのように。
私もあなたも、アメリカ国家が当時とったような、鬼畜な手段はとれない人だ。
それは分かっている。
しかし、戦争は私たちの内なる葛藤の反映だ。
そしてどこかには鬼畜な手段を平気でとれる人もまだまだいる。
もしかしたら。
もしかしたら、だ。
福島から避難する人が少なくて良かったと、どこかで、ほくそ笑んでいる人やグループがいるのかもしれない。
なぜなら、広島、長崎の原爆投下後の次なる(人体)実験測定が出来るから。
今日、広島で、見て聞いたことをもとにすると、悲しいかな、そこまで考えなくてはならなく思う。
でなければ、福島後に、あのような選挙公約を掲げることは、普通、出来ないだろう。
原発は核兵器だ。だから躍起に守ろうとする。
国家の意志とは、一体なんなのだ。
ひとつ救いがある。
平和記念公園を訪れる海外の方がとても多かったこと。
若い、ひとりで訪れている女性も多かった。
そこには、ハートフルな人特有のオーラがあった。
知性とハートと神性さ。
私たちは、これらを活かすことでしか、
内なる葛藤も戦争も「略する」ことは決して出来ない。
最後に。
3歳の鉄谷伸一くんは、自宅のお庭で三輪車で遊ぶことが大好きだった。
そして、その日の朝もいつものように遊んでいた。
朝8時15分。三輪車とともに被曝し焼ける。
ひとりで伸一くんを埋葬するのは寂しかろうと、
しばらくお庭に伸一くんとともに埋葬していた
その三輪車。