意識は「光」を放っている。
同様に、目も「光」を放っている。
自分自身を観なければならない理由はここにある。
自分の意識の癖や反応的パターンは、それと気づかずにまたそのような自分でいることが果たして自分にとって正しいことなのかどうかと吟味もせずに、自動的習慣として行っていることがほとんどである。
それらは「闇」となって私たちを知らず知らずに支配的に動かしている。
支配的にも拘わらず、そこに気づけないためにその支配から逃れることが出来ないでいる。
まずはその「闇」を「光」で照らし出さなくてはならない。
そのとき「光」の力で「闇」は支配的な力を失う。
「光」は「闇」を消せるが「闇」で「光」は消せないからだ。
支配的な力を失うと同時に、それが不自然な癖やパターン・行為であればあるほど、意識の「光」を浴びることでより「自然な状態」に回帰しようとする。
これは自動的に起きる。
それは「意識/精神の自己治癒力」と言ってもいい。
無意識エネルギー支配からの自由とも言える。
認識力はあなどれない。
すべてを「いま、ここ」で認識していくことが私たちのはじまりであったからだ。
私たちの源泉は無垢な「目」にある。
その「目」が観るものは、私たちの「意識」が映し出された「鏡」としての物質世界だ。
この物質世界をあるべきように成立させる役割と、私たちの純粋無垢な「目」を維持していくエネルギーとしての神器の役割。
三種の神器が令和の時代に受け継がれたことに感謝を込めて。