ただでも、2年以上にわたるコロナ禍があり、また先月より始まったウクライナ紛争という、いつ核が使われてもおかしくない状況のなかで、わたしも含め皆ストレスにさらされている。
加えて、近代社会が、
資本主義、国民国家体制、経済での生産者と消費者の関係性、教育システム、戦争の様相や国防、地球環境、宗教など、
あらゆる面でその限界を迎えている。
この限界を超えるために、ほぼすべてのシステム機能は強化され、多くのひとに服従/隷属を強いる力が強大化している。
ますます、個々人の感じるストレスは増大し、企業内、学校内や友人との関係性においても「やわらぎ」は遠のき、小さな確執が増えていることだろう。
多様性(ダイバーシティ)を容認していくことで、近代は活路を見いだそうとしていたが、戦争勃発によりそれすらも抑圧されていきそうな気配だ。
以下はダイバーシティについて触れた昨年7月のメルマガ。
まだこのメルマガから一年も経っていないが、世界は先月から不可逆的に変わってしまった。
私は多様性の容認なくては、外側の平和も内的な平安もないと思っている。
お互いがお互いを服従させず、隷属させず、服従せず、隷属しない。
この在り方があってはじめて世界は多様性がうまれる土壌が出来る。
いま、世界はプロパガンダも含め、ここに逆行している。
だからなお一層声を大にしてい言いたい。
服従するな。
服従を強いるな。
*** 2021年7月15日 沢渡和メルマガより***
先週のことだ。
夜中の三時半に息子が寝室の入り口に立っていた。
部屋に入らずに扉口から声をかけているようだ。
「お父さん、いま、警官が2名うちに来ているから、挨拶してくれる」
何かの聞き間違えかと思った。
「お父さん、いま、友達が2名うちに来ているから、挨拶してくれる」
同じ構文ならば内容的にはこちらの方が、はるかにふさわしい。
警官2名に対して私が「良く来てくれました」とでも挨拶すればいいのだろうか。
玄関に向かう階段を降りながら、20歳過ぎているのに補導ではないだろうからいったい何があったのか。また知り合いの警官なのかと尋ねるが、その間もなく、玄関に着いてしまい、警官2名と対面することになる。
「こんばんは」
「こんな夜分遅くに、ご迷惑おかけして本当に申し訳ありません」
「いや、迷惑をおかけしているのは、きっと、間違いなくこちらでしょう。何がありましたか?」
さすがに、目も覚めてきているので動揺しはじめてきた。
「事件性はまったくないのですが、さきほどですね、…………。……………。
というわけなので、何かを抱えているかもしれませんので、息子さんとお話していただければと思います」
「そうですか。わざわざ本当にありがとうございました」
息子を通して、警官と話す機会は、ここ数年予期せずに増えたのだが、みなとても親切で礼儀正しく、低姿勢で街の治安と若者たちを守ろうとしてくれている。感謝に堪えない。
近所の派出所の前を通るたびに、知り合いの警官がいたら会釈しなくてはと思う親は、そうはいないだろう。
何も生産的なことをしていない息子の悩みで、家族が想像出来るものとしたら、大学での単位取得くらいのものだが、他にあるのか?
まあ観念的なことをいろいろ話してはいたが、つまるところは、単位取得なようだ。本人はそうは思っていないようだが、じきにそうだったと分かるだろう。かわいい奴だ。
そもそもニートのような生活しかしていないここ4,5年だったから、食べる、用意をする、風呂に入るなどのすべての活動の基礎スピードが遅すぎるのだが、話すときの頭の回転の速さだけはなかなかであった。
困ったものだ。しかも、学生なので観念的だ。肉体感覚を伴っていない。
とにかく、明日からは毎日庭の草むしりを1時間半以上という約束でケリがついた。今日もイヤホンしながらゆっくりと草をむしっている。かわいい奴だ。
朝6時に寝床にもどり、8時半に起きたら、娘と廊下ですれ違った。
「昨日深夜に弟が警官二人と一緒に帰ってきたの知ってる?」
「知らない。へーそうなんだ」
「.........」
それで終わりにしていいのか。
何があったか、娘よ、聞きたくはならないのか。
「9時からオンラインで仕事だから、話はお昼にしてくれる」
どこまで図太いんだ。
生きる上での、危機に対する耐性の違いを見せつけられた思いだ。
オレはHSPなのかもしれない。
娘も息子も服従を知らない。
ダイバーシティという「多様性を受容していく」という意味の言葉がある。
だが、ダイバーシティの徹底は、通常では想像も出来ないような多様性を受け入れなければならなくなることを含意している。
朝井リョウの新作『正欲』はその点を深くみつめた。
読後には自身の価値観の制限を知り、それがためされるような感覚を持つ。
中学生以来、学校嫌いで、怠惰で、観念的で、寝てばっかりで、本よんで夜中ふらふら出歩いて警官の職務質問を受けるという、まるで私のころの大学生だが、いまの大学生ではたぶん普通ではない。
普通でないことはたたでも生きづらい。
私はコミュニケーションが比較的好きだったので、あまり苦労はしなかったが、コミュニケーションが嫌いな人同士はどのようにダイバーシティを実現すれば良いのだろう。
リアルでもネット上でも、コミュニケーションが嫌いな人、そこに意味を感じられない人はどのように多様性を認めあえばいいのだろう。
先ほどの書籍では「身体感覚」からの「ここにある/いる」という感覚をもとに、救いや癒しが発露する様がせつなさとともに描かれていたが、それすらも出来ない場合、どうすればいいのだろう。
エネルギー的なコミュニケーションのみで何かが変わっていくという、SF的未来像が開けてくるのだろうか。そうかもしれない。
考え続けなければならない。
まだまだ、私たちが知らないコミュニケーション方法がどこかにあるはずだ。
誰もが、自分なりのコミュニケーション方法を創り上げていけばいい。
ここ10年、急速にその手段は増えている。
多様性を認め合うのではなく、他者を通常と異なるというだけで否定/抑圧しなければ、それでいいのだろう。
自分なりのものを創り上げていないと、一般とは異なる方法を不安感から否定してしまう。
「良し悪し」の観念から自由になることだ。
自由とはそういうことだから。
SF傑作『三体』も、マンガ傑作『進撃の巨人』も、『正欲』もそこを礎としているように私には思える。
自らが、また世間や社会一般がどのようなことに対して隷属状態でいるのか、いつづけようとしているのか、そこを見つめることだ。
あらゆることから「自由」であれ、という力がいま働いているからこそ、世間一般的なもの多数派的なものが崩れつつあるのだ。
*** メルマガ抜粋ここまで
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かつて金星がアセンションできた理由もここにある。
服従するな。
不撓不屈であれ。
自身(の良心)に倫理的でいつづけよう。