自我(エゴ)は、自己防衛機能を持つ。
自分自身の触れたくない部分に触れそうになるとき、
私たちは、その方面についての探究と疑いをしない。
自分では、自分自身をきちんと見れているつもりでいる。
しかしオーラ的には、2層のなかでグルグルしているだけで、
3層のエネルギー(ありのままに見る)を、使えてはいない場合がほとんどだ。
自我が、何かを支えているだろう、という漠たる感覚は、誰にでもある。
それは、きっと、
「こうであれば、こうしていれば自分は大丈夫」という自分の安心感。
だから、自我が崩れ去るとき、瞬間、慌ててしまう。
自我を支えているのは、ある思考パターン。
論理様式。
それが、安心感を導いている。
思考それ自体は、論理様式に過ぎない。
思考に罪はない。
ある思考パターンに罪がある。
「思考パターン=自分の安心基盤」。
こうして、ある思考の論理様式に嵌っていく。
だから、その論理様式のありのままの姿と、
その限界を分かりやすく提示してみせると、
その人は、本当の意味で安心出来る。
ひとり相撲だったことも良く分かる。
自然と涙が出てくる。
もう、これからはあんなに頑張らなくてもいいのだ、と。
そこから自分で考え始める。
自由意思を使い始める。
自由が始まる。
写真は、昨日のキャセドラルロック写真の岩を裏手から登ったところにあるセドナ一の聖地