たとえば、ある少年の写真を見たとき、
その少年を、まるで自分自身のように感じているとき、私はいない。
私は、その少年と同化している。
否。
私がなくなり、私は少年そのものとなっている。同化している訳ではない。
ただ、私が消失している。
私が消失したとき、私の意識はなんにでもなれる。
主語の喪失。主体者の喪失。
主語が、主体者が喪失しているとき、その人はいない。
意識は、それほどまでに自由だ。
私が、私の意識を、私に閉じ込めている。
内なる声に耳を澄ませ。と良く言われている。
内なる声を発するのは誰か。
私ではない。
私が喪失したところから自然と浮かびある声。
1 内なる声を聴こうとするのは私。
2 内なる声を発するのは、私を喪失した意識存在。
だから、私が内なる声を聴こうとすればするほど、私が前に出てきて、内なる声の邪魔をする。
この1と2両者を統合するのは、私なるものの客観視にある。
1である私も、2である私の意識存在も、
ともに私が客観視しているとき、両方ともに私の器のなかで、統合され繰り広げられる。
意識の多次元性。無限性。
私という存在の多次元性。無限性。
それを活用して、内なる声を聴く。
論理を超える。
ハートの私に還る。
写真はArt Swing のMAMIさんの絵 組曲2