オーラが伝えるすべて

沢渡和がオーラやチャクラ、チャネリング等 スピリチュアルなこと全般についてお伝えしていきます。

ありがとう

自由な校風に満ちていたため、高校には、行きたいときに行っていた。
授業が退屈なときは、部室でくつろいでいた。
部室では音楽が自由に聴けた。放送部に入っていた。
バレー部と悩んだのだけど、結局、体育会系の上下関係は自分には向かないのと、ONKYOの結構いいアンプがあったのが決め手となった。
出来て間もない部室のない漫研の連中や音楽好きの人間が、よく遊びに来ていた。


あのとき、もしバレー部に入っていたら、人生は変わっていたのだろうか。
間違いなくそうだと思う。
なぜなら、当時、最も私に影響を与えてくれていたのは、同じ部かそこに集っていた仲間たちだったのだから。


はす向かいには、鉄道研究部があって、長谷川はそこに所属していた。
姓は違うものの、名前が偶然にも同じ。

親友と名前が同じでも、デメリットこそあれメリットはとくにない。


例えば、私が長谷川の家に遊びに行っているときに、お母さんがお茶や食事を作ってくれたとしよう。

食事を運ぶのを手伝って欲しいとき、当然、母親というものは子どもの下の名前を、大声で呼び捨てにして、叫ぶ。
慌てるのは私だ。

友人の母親に、突然、怒ったような口調で自分の名を呼び捨てにされるのだから。
姿勢を正して「ハイ」と応えてしまう。

彼が私の家に遊びに来たときも状況は全く同じだ。
いや、私の母の方が声に勢いがあったから、彼の方がよりビビッていただろう。
お互い慣れるまで1年くらいは要したかな。


一度、彼の家で面白い話を耳にした。
「お前、明日、宅急便が届くから学校休んでくれない。お母さん、出かけたいのよ」
なるほど。
この母にして、この子ありなのだな、と。

彼はバイクも車もその運転技術は天才的だった。
鉄道の話をしたことはないが、鉄研に入ったのも乗り物が好きだったからだろう。
高校時代、バイクの操作方法を習ったのは、すべて彼からだ。

夏は早朝から鎌倉の峠道で特訓させられた。
その道の微妙な段差やマンホールの位置等すべてを記憶していた。
私はと言うと、そこでの成果を、こっそりと別の友人に見せては驚かせていた。

F1レーサーになりたがっていて、高校時代に既に車の免許を取得していた。
彼の運転を見たものは、誰もが、彼が一流のレーサーになれたであろうことを信じていた。


しかし、時代と環境がまずかった。
県下一の、いや公立高校では当時日本トップの進学校だったために、東大を目指すものは腐るほどいても、レーサーを目指すものなど、皆無だ。


今ならいるのかもしれない。いや、いて欲しい。

彼の運転する車の助手席に座ることは、快楽だった。
どんな急なS字カーブでも、全く身体にGがかかることがない。
そのくせ、スピードはかなり出ている。
この不思議な快楽は、経験したものでなければ分からないだろう。


欠席日数が多くて軟弱モノと担任からののしられたときも、
授業をサボって一緒にゲームセンターにいき数学教師に見つかったときも、
駅伝コースをショートカットして体育教師に見つかったときも、
そして担任が僕らへのお仕置きのため、大勢の女子の前で僕らの尻をめがけて竹刀を力一杯振り落とすときの、その痛みの逃れ方も、すべて彼から教わった。

カプチーノを頼んだときに付いてきたシナモンのスティックバーを使い方も意味も分からず、二人して一生懸命かじって、
「なかなか食べられないね」
と笑い合ったのもいい思い出だ。

私は、今でも、人生での選択に悩むと彼に会いに行きたくなる。
彼は一流企業のサラリーマンだというのに、昼間っから大量にビールを飲んで、元気付けてくれる。
私は下戸なのに....

その後、どう言い訳しているのか、知らない。

もしかしたら学生時代のように、会社に戻らずにそのまま海でも見に行って、カプチーノを飲みながら、酔いをさましているのか。

私が大学の時に亡くした父と姿かたちが似ているのも、彼への思慕をつのらせているのかもしれない。

当時から今までずっと、彼がいてくれたおかげで、今、安心して自由に生きていられる....

今日、彼の訃報を聞いた。
あまりにも突然の知らせだった。

心より、心より、冥福を祈る。

いままでいろいろ、ありがとう